『真に相手を思うなら』 読む法話 日常茶飯寺 vol.2

 数年前に作家の佐々涼子さんが書かれた『エンジェルフライト』という本を読みました。国際霊柩送還士と呼ばれる方々に密着して書き上げられたノンフィクションの本です。皆さんは国際霊柩送還士という仕事をご存知でしょうか。海外で亡くなられる日本人は年間400人〜600人おられるそうで、ご遺体は当然飛行機に乗って日本へ帰ってくるわけですが、どうしても日数がかかってしまいます。その時にご遺体に「エンバーミング」と呼ばれる処置が施されます。エンバーミングとはご遺体に防腐処置や殺菌消毒、お化粧などをして衛生的に修復保全する処置のことです。

ただ先進国はエンバーミングの技術が発達していますが、発展途上国ではまだまだ未発達です。エンバーミングが未発達な国で亡くなった場合、何の処置も施されないまま何週間もかけて帰ってくるということも決して珍しいことではないそうです。

日本ではご遺族が待っています。しかし、エンバーミングの処置が施されず変わり果てた姿でご遺族と対面してしまうと、一生の傷となって残ってしまうそうです。そして何より、亡くなったご本人もご家族との最後の対面にやはり綺麗な姿で生前のお礼を伝えたいに違いありません。

そんな方々にエンバーミングを施し、ご家族との最後の対面に臨むお手伝いをなさる方々が国際霊柩送還士です。国際霊柩送還士の方々はご遺体にエンバーミングを施す時、必ず「おかえりなさい。」「よく帰ってきたね。」「今、お支度させていただきますね。」「よかったね。お父さん、これで娘さんたちに会えるよ。素敵になった。」「旅のお支度、整いました。さぁご家族のもとへ帰りましょうか。」と声をかけながら処置を進めていくそうです。その人の人生、その人の人柄、その人の伝えたかったこと、どんな姿で家族のもとへ帰りたいか、いつもどんな髪型を好み、どんな笑顔をしていたかを懸命に聞き取ろうとしながら。

エンバーミングの処置が施された故人と対面したご遺族が「あぁ、あの人だ…」「きれいだね、本当にきれいだ…」と涙を流して「ありがとう、ありがとう」と故人と最後のお別れをなさる、その一瞬のために彼らは全力を尽くすのです。

翌日には火葬して骨になってしまうご遺体にそこまでするのは決して合理的とは言えないかもしれません。

でも、故人を想って流す涙を、ただの98%の水分とタンパク質とナトリウムでできた涙だと割り切ることができるでしょうか。決して合理化で流してはいけない、科学では割り切ることのできない人間本来の営みの美しさと切なさが間違いなく存在するのです。

きちんとお別れができてこそ、ご遺族は一歩を踏み出すことができるのです。

 国際霊柩送還士の仕事は何をもって成功と言えるのか。著者の佐々さんはご遺族への取材の中で国際霊柩送還士の仕事の真髄を知った瞬間があったと言います。

海外援助の仕事をする中で亡くなられた方がいました。日本に帰ってきて国際霊柩送還士がエンバーミングを施し、お母さんとの対面を果たしました。それから時が経ち、そのお母さんのもとに佐々さんが取材に訪れた時のこと。通された仏間にはいくつかの遺影が並んでいて、ひときわ若いのが息子さんです。

「遠いところよく来てくれましたね」とお母さんが和菓子とジュースを出してくださいました。それからゴソゴソとたくさんのアルバムを引っ張り出してこられて、一枚一枚めくりながら息子さんの思い出話をとても嬉しそうに語られるのです。職場でどれほどみんなに好かれていたか、どれほど親孝行であったか、彼が海外援助を行っていた場所で現地の人々がいかに彼を慕っていたか。まるで息子さんがそこにいるかのように嬉々として話をされるのです。そのお母さんの話を聞いているうちに佐々さんはふと気がつきました。国際霊柩送還士の話が全く出てこないことに。

お母さんの中で、もっとも辛かった記憶は削除され、楽しくて幸せな記憶へと再編集されつつある、ということに気がついたのです。

その瞬間、国際霊柩送還士の木村利惠さんが言っていた一言が佐々さんの脳裏をよぎりました。「私の顔を見ると悲しかった時のことを思い出しちゃうじゃん。だから忘れてもらったほうがいいんだよ」

その後も、お母さんはアルバムをめくりながら語られます。最初に歩いた日のこと、最初に「ママ」と言った日のこと、抱きあげた時の髪のひなたのにおい、首に回した手の小ささ、泣きべそをかいて走っていた運動会のかけっこ、小学校の入学式、親子げんか。そして「行ってきます」と家を出た時の笑顔…。

人間という生き物は深い悲しみを、つらい記憶を忘れようとするそうです。生きていくために、忘れようとするのです。だから、国際霊柩送還士の方々の手によってきちんと故人と最後のお別れができたなら、いつか亡くなった時の一番つらい記憶は薄れ、一番いい思い出とともに遺族は故人を思い出す。そこにはもう国際霊柩送還士の面影はないのです。

「あぁ、これでいいのだ。」佐々さんの中で何かがスーッと溶けていきました。

国際霊柩送還士は忘れられるべき人たちなのだと、心の底から頷いたそうです。

「よかったですね。あなたたちはきちんと忘れられようとしています。よかったですね。」と国際霊柩送還士の方々に敬意と共にその感嘆の思いを綴っておられました。

 この本を読んで、国際霊柩送還士の方々の故人と遺族に対する謙虚で誠実な姿勢に感銘を受けました。「誰かに何かをする」ということを追求し尽くしたならば、そこには「我」というものが存在しないんだということを教わりました。国際霊柩送還士の方々は決してお礼を言われたいわけでも、有名になりたいわけでも、お金が欲しいわけでもなく、遺族が故人ときちんとお別れが出来たか、ただそれだけが問題なのです。

真に相手のことを思うなら、「我」を挟む必要はないのです。「あれだけしてやったのに、お礼の一言もない」というのは相手のことより、「我」が先に立っているのかもしれません。

阿弥陀さまは一番大事な願い(本願)に「あなた一人を救えないようなら私は仏にはならない」と願われています。あなた一人を救えないなら仏の座も、悟りもいらない、とまでおっしゃってくださるのです。仏になったから私を救うんじゃなくて、私ひとりを救うために仏になってくださったのが阿弥陀さまでありました。

「お礼の一つもいらん、ほめたたえてくれなくて結構。ただただあなたが愛おしくて見捨てることなど出来んのよ」という阿弥陀さまの一雫の涙が南無阿弥陀仏のお念仏でありました。

合  掌  

(2019年7月15日発行)