『どんな私でも、どんな人生でも』 読む法話 日常茶飯寺 vol.3
人生は一度しかありません。誰もがその一度きりの人生を幸せに過ごしたいと思いながら日々を過ごしているのではないでしょうか。
幸せな人生とはどんな人生でしょう?お金がいっぱいある人生?健康で長生きすること?他人に凄いと言われるような何かを成し遂げること?平凡であること?十人十色、人それぞれ思い浮かべることはたくさんあるでしょう。もしかするとそれは真ん中に一本線を引いて、こうなったら幸せ、そうでなかったら不幸せという分別をしていないでしょうか。それらは図式化してみると図1のように表すことができると思います。
○が良いこと、×が悪いこと。○がいっぱいある人生、自分の思い通りになっていく人生が幸せな人生だと思って私たちは日々○や×にこだわって生きているのではないでしょうか。
しかし、仏教はハッキリと断言するのです。「その先に幸せはありませんよ」と。
では仏教は何を説くのかというと、○と×を分ける一本線、その一本線を問題にするのが仏教なのです。そもそも○と×を分ける線なんてものはどこにも存在せず、あるはずのない線を私が勝手に引いて、私の都合で世の中のことを○と×に分けるからおかしなことになっていくんだよ、と説くのです。(図2)
そもそも○と×を分ける一本線など存在しないのだから、○も×も無いということです。一本線も○も×も、全て私の脳内で作り上げたものなのでしょう。現に、「今日は良い天気やなぁ」と言って、天気にも○と×をつける私がいます。でも、良い天気が必ずしも晴れだとは限りません。私にとっては晴れが○であっても、誰かにとっては雨が○ということもあります。みんなが共通の一本線を持っているのではなく、それぞれバラバラの一本線を基準にして幸せを計ろうとしているのです。
また私たちというのは、些細なきっかけに出会うだけで○が×に変わったり、×が○に変わったり、コロコロ変わっていってしまうものです。その例として一つ小話を紹介します。
60歳で定年退職を迎えたサラリーマンの男性のお話。23歳の時にある会社に就職し、真面目一筋で37年勤め抜いて60歳で定年退職されました。
「37年間、本当にお疲れ様でした。」社長や同僚のみんなの拍手喝采を浴びながら37年通った会社を後にしました。
空は晴天。でもこの日ばかりは雲が一つもないのがなんだか寂しく思えて、このまま帰ってしまうのも何だし、少し早いけどお昼にすることにしました。迷うことなく向かった先は、会社のすぐ近くにある37年間通った老舗の蕎麦屋です。
「いらっしゃい」
聞きなれた蕎麦屋の大将の声。この店でいつも腰を下ろすのはカウンターの一番端っこの席。もはやその椅子も自分が来るのを待っていたような気がして、いつもの椅子に腰を下ろして大将に言いました。
「大将、いつもの!」
いつもの、というのはきつね蕎麦。これがワンコイン500円で食べられるのでこの男性は37年の間で一番きつね蕎麦を食べたのです。だからやっぱり37年の締めくくりはきつね蕎麦以外には考えられません。知らず知らず出来上がっているきつね蕎麦への執着に37年という時の経過を感じながら待っていると
「はい、お待ち」と大将が出来上がったきつね蕎麦を差し出してくれました。「いただきます」と言って割り箸を割り、まずレンゲでだし汁をすくって一口すすりました。改めて味わってみると、特別美味しいわけではないけれど37年変わらない味で、色々なことが思い返されてきます。
「入社してすぐ上司に連れられて緊張しながらこの蕎麦をすすったのが昨日のことみたいだな。仕事がうまくいかなくて泣きながらこの蕎麦をすすったこともあったし、上司に怒られながらこの蕎麦をすすったこともあった。37年、色々あったなぁ・・・。」
そんなことを思っていると何か込み上げてくるものがあって、耐えきれずにカウンター越しに厨房の大将に話しかけました。
「大将、私も37年この店に通ったけどね、実はさっき会社を定年で退職したんです。だから明日からはこっちに出てくる用事がなくなるから、この店にももうあんまり来れなくなるんですよ。」
ところがこの大将というのが37年前から口下手で無愛想な人で、「あぁ、そうですか・・・ご苦労さんでした。」と、やっぱり会話が続きません。でもそんな大将も今日は愛おしく思える…
感傷に浸りながら蕎麦をすすっていると、突然横からにゅっと手が伸びてきて、なんとその伸びてきた手が蕎麦の上に海老の天ぷらを二つ乗せていくのです。驚いて手の主を見るとそこには大将が立っていました。
「え・・・いいんですか」
「どうぞ、召し上がってください」
「・・・ありがとうございます」
男性は胸に誓いました。頻繁には来れなくても元気な限り生涯この店には通おう。それがこの店への恩返しだ、と。
男性は「ありがとう」を言う代わりに、蕎麦も海老の天ぷらも食べて、だし汁も全て飲み干してどんぶり鉢を空っぽにしました。
「あぁ、美味しかった・・・。大将、ごちそうさん!」
そう言っていつものようにカウンターの上にきつね蕎麦代の500円玉を置こうとしたその時です。厨房にいる大将が大きな声で言いました。
「ありがとうございました!800円になりまーす!」
えーと、きつね蕎麦は500円ですから海老の天ぷらは一つ150円ですね。二つで300円で合計800円、大将きっちり請求なさる。
その一言を聞いた男性は瞬時にこう思ったそうです。
「こんな店、二度と来るもんか!」と。
いかがでしょう?37年の情でさえたったの300円でひっくり返ってしまうのです。笑い話のようだけど、私たちの価値観なんてそんなもんじゃないですか。必死に求めたり、しがみついてきた○も、些細なきっかけに出会うだけですぐさま×に変わるのです。○も×もコロコロ変わっていってしまう、そんな曖昧な一本線を基準にして生きていって、本当にその先に幸せがありますか、その一本線がそもそも間違ってるんじゃないですか、と仏教は私たちに問うのです。
お釈迦さまが明らかにされた幸せとは、そんな一本線で計れるようなものではありませんでした。こうなったら幸せ、そうでなかったら不幸という分別を超えて、時代や価値観に左右されることのない喜びが誰にでも平等に与えられていると説くのが仏教です。そのことに出会い、どんな私でも、どんな人生でも「よかった」と言える、それこそが幸せというものじゃありませんか。
まさにそのように90年の生涯を生き抜かれたお方が親鸞聖人でした。
この度の報恩講で皆さんと一緒に親鸞聖人のお喜びを聞かせていただくことを楽しみにしております。
合 掌
(2019年11月1日 発行)