『Oさんの後ろ姿』 読む法話 日常茶飯寺 vol.34
西福寺本堂の裏には墓地があります。お盆やお彼岸には、多くの方がお墓参りをされます。
その中に、西宮から来られるOさんという男性がおられます。Oさんは奥様の介護をされながら、奥様がデイサービスに行っている合間を縫って西宮から阪神電車で三ノ宮に行き、J Rに乗り換えて、姫路駅で姫新線に乗り換えて本竜野駅で降りて、タクシーに乗って西福寺までお参りに来られるということを91歳頃まで続けてこられました。
西福寺の墓地はなだらかな斜面になっていて段差も多く、ご高齢のOさんにとっては厳しい環境だったと思います。実際に、転んで怪我をされたこともありました。それでもお墓参りをやめられることはありませんでした。
ある時は、本竜野駅前にタクシーがおらず、駅前の自転車屋さんで自転車を借りて西福寺まで来られたこともありました。「自転車で来ました」と聞いてビックリして、お墓参りの後、私の車にOさんと自転車を乗せて本竜野駅に行きましたら、自転車屋さんの奥さんも心配なさっていて、外に出てOさんの帰りを待っていてくださいました。
Oさんが91歳の頃からは息子さんが仕事でお忙しい中、都合をつけて車で一緒にお参りに来てくださいました。
そして先日、そのOさんがご往生されました。満93歳でした。最後の最後まで「お墓に参りたい」とおっしゃっておられて、側におられた娘さんが「私がお参り行ってくるから、安心してよ」と言うと、ホッと安堵の表情を浮かべられ、その晩お浄土に参られたそうです。
雨の日も、風の日も、転んで怪我をしようとも、黙ってひたむきに両親のお骨が納められたお墓に参ってこられ手を合わされるOさんの後ろ姿に、私も坊守(妻)も頭の下がる思いでいっぱいでした。
そんなOさんの姿を思い返していて、ふと思い出した話があります。
南米のアンデス地方に古くから伝わる「ハチドリのひとしずく」という話です。短い話ですのでここに引用します。
森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」
ハチドリというのは小さい種類のもので全長6センチという小さな鳥です。そのハチドリの口ばしに含まれた一滴の水というのは、爪楊枝の先から落ちる一滴ほどの量でしょう。
森の動物たちはとても合理的です。自分達がどんなに手を尽くしても、燃え盛る火の勢いには敵わないことを知っています。それならば無駄な努力はやめて自分の身を守ろうと言うのです。
それに対して、クリキンディはどうでしょうか。クリキンディもそんなことは分かっていると思います。むしろクリキンディは今まで生きてきた中で、自分が誰よりも小さく、誰よりも非力であることを痛感してきたはずです。
では森の動物たちとクリキンディの違いは何でしょうか。
私は「知恩」だと思います。
クリキンディは誰よりも、森から受けた恩の深さを知っているのです。
それは同時に、森が燃えていることに対して誰よりも胸を痛めている、ということでもあるでしょう。食べ物や飲み水を恵み、両親や兄弟、友達と過ごしたその森はもう二度と戻らないのです。自分を育んでくれたその森への恩を思うと、たとえ自分の口ばしから落とす一滴の水が何の役にも立たないと分かっていても、そうせずにはおれなかったのです。
私は西宮のOさんとクリキンディの姿が重なって、大切なことを教えてくださっているように思えてなりません。
Oさんのお墓参りとクリキンディの行動は、根っこの部分では同じことではないだろうかと思うのです。Oさんはお墓の奥に、クリキンディは森の奥に、自分にかけられた途方もない恩を見ておられて、そのあまりに大きな恩に対して自分にできることを精一杯なさっています。
そうすることで、お金が儲かるわけじゃない、病気が治るわけでも願い事が叶うわけでもない。「そんなことをして何になるんだ」と言う人もいます。
でもOさんもクリキンディもきっと、自分の行動によって未来に何かを期待しているのではないのです。途方もない恩を知った「結果」として、その行動があるのです。
別に恩を知らなくたって生きていくことはできます。「そんなことをして何になるんだ」という生き方も、別に間違っているというわけではありません。
けれど、O さんやクリキンディの一生が豊かであったということは疑いようがありません。
恩に生きる人の人生の根底には深い喜びがあるのだと思います。それゆえに心を痛めることもあるでしょう。けれど、それとて深い喜びの上にあることです。そういう喜びの上に笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、そういう営みそのものを「幸せ」と呼ぶのかもしれません。
「こうしたら、こうなる」「ああしたら、ああなる」という合理的な考えに基づいて、未来に何かしらの目標を設定し、そのために努力をしていくということは人生において大切なことでしょう。
けれど、努力したからと言って必ずしも思い描いた結果があるとは限りません。心が折れてしまうこともあるし、涙を枯らすことだってあります。むしろ人生とは自分の思い通りにはいかないものです。
そういう人生において、本当に大切なことは何なのか。それは何も特別なことじゃなく、自分にかけられた恩を知ること。生きていく先にどのような結果があっても、その事実を有意義なものとして受け入れていくことの出来る豊かさこそ、「恩を知る」ということから恵まれるのだということを、Oさんとクリキンディ、そして親鸞聖人もまた、身をもって教えてくださったお方でした。
Oさんはお仏壇やお墓を通して、生涯その恩に手を合わせられたお方でした。そして93歳を一期として阿弥陀さまに抱かれて、Oさんご自身もその途方もない恩の世界、涅槃(ねはん)の境地へと入っていかれたのです。その後ろ姿は、人間として本当に大切なことを教えてくださる尊いお姿でありました。
合 掌
(2022年10月5日 発行)