『彼岸と此岸』 読む法話 日常茶飯寺 vol.33

 今月は秋のお彼岸を迎えます。「彼岸(ひがん)」とは「彼の岸」ということですから、先立っていかれた方々が往かれた極楽浄土のことを意味します。それに対して、私たちが生きているこの世界のことを「此岸(しがん:此の岸という意味)」と言います。

彼岸を通して此岸を見つめることで、気付かされることがあります。亡き方を縁として今生きている自分を見つめることで、見えてくるものがあります。そういう広い視野からいのちの繋がりを感じることを大切にしてきたのが「お彼岸」なのです。

 私たちが生きているこの此岸は、またの名を堪忍土といいます。堪忍とは「堪忍して〜!」の堪忍ですから、耐え忍ぶこと。土とは世界を表します。つまり堪忍土とは、耐え難い苦しみに耐えていかねばならない世界、ということです。

私たちの日々の暮らしの有り様は、享楽を求め、苦しみや悲しみが無くなること、減らしていくことを願いながら右往左往しているところはないでしょうか。でも、そりゃそうですよね。誰も苦しみたくなんてないし、悲しい思いなんて一度たりともしたくありません。それでも厳しい現実は突然、容赦なく降りかかってきて、「なんで私が…」「なんであの人が…」と泣いていかねばなりません。どんな宗教に頼ってみても、何にすがってみても、この世から苦しみや悲しみがなくなることはない、それを堪忍土というのです。

 これは、浄土を知った人にしか言えないことです。人類で初めて宇宙から地球を見たガガーリンだからこそ「地球は青かった」と言えたように、浄土を知ったお釈迦さまだからこそ、この世は堪忍土であったと言えるのです。

浄土を知らない私たちは、今生きている世界が堪忍土であるということも分からず、またそれを受け入れることも出来ずに生きているのでしょう。

いのち終えたなら浄土に生まれていくことを願いなさいと言われても、浄土を見たこともないし、あるのかないのかも分からない私にはとても難しいことです。

でも、お経にはとんでもないことが説かれてあります。

私が浄土を願うのではなくて、私が浄土に願われている、というのです。

阿弥陀さまは「あなた一人を救えないようなら、私は仏にはならない」と誓ってくださった仏さまです。それは浄土も同じで、この私が浄土に生まれていかなかったならば、もはやそれは浄土ではないのです。この私一人が欠けたならば、阿弥陀さまも浄土も全て崩れていってしまうのです。私が阿弥陀さまを信じるのではなくて、阿弥陀さまが私を信じていてくださるのです。その阿弥陀さまの大いなる願いがはたらきとなって私の元に届けられていた、それが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

堪忍土に生きる私たちにとって、苦しみ、悲しみを縁として、この大いなる願いに遇っていくことで堪忍土の意味合いが変えられていく、というのです。

そのことを教えてくださる、『私のかわりに』と題された手紙を紹介させていただきます。

『私のかわりに』

もう私が守ることができないから、どうかこの子が道端で泣いていたら、大丈夫だよと声をかけてやってください。

どうかこの子が独りぼっちで公園にいたら、一緒に砂山をつくってやってください。

どうかこの子が運動会でかけっこをしたら、頑張ったねと抱きしめてやってください。

そしてこの子が参観日に淋しそうに後ろを振り向いたら、手を振ってウインクをしてあげてください。

そして中学にあがった日には、満開の桜を背景に写真をとってやってください。

そして反抗期には、何をしてもいい、人に迷惑だけはかけるんじゃない、体だけは大切にしなさいと伝えてください。

いずれ社会に出て色んな壁とぶつかったとき、下だけは向くな、人のせいにするなと伝えてください。

そして心から好きな人が現れたら、求めずに与えなさい、と。

そしてどうかこの子の結婚式の日には、たくさんの笑顔で祝ってあげて…

それからどうかこの子が母親になって涙しながら我が子を抱き、絶えることない強い愛を知ったとき、あなたの母は変わることなくその愛を今もあなたに注いでいると伝えてください。

それから最後に、どうかこの子に

私は世界一幸せな母親だったと伝えてください。

どうかどうか世界中の皆様、私のかわりにお願いします。

私のかわりに。

 これは余命3ヶ月と宣告された30歳のお母さんが1歳の娘さんを思って書かれた手紙だそうです。

この娘さんがこの手紙をいつ、どのように受け止められたのかは分かりません。

あくまで想像ですが、この娘さんが幼少期、思春期、孤独を感じなかったかと言えば、きっとそんなことはないと思います。

折に触れて「どうして私にはお母さんがいないの」と、埋めることの出来ない寂しさに嗚咽しながら過ごされたかもしれません。

けれども、この手紙に込められた計り知れないお母さんの愛に触れた時、その愛は生死を超えて、今も、過去も、そしてこれからも、ずっと自分に注がれていることを知った時、どうだったでしょうか。孤独の苦しみが深ければ深いほど、途方もないお母さんの愛の深さを知るのではないでしょうか。それはきっと、孤独であった日々に頷きを与える強烈なものであったに違いありません。

遇うべきものに遇ったなら、孤独であった事実は変わらないけれど、孤独であった日々の意味合いが変えられていくのです。

 この手紙は一貫して「生死を超えて、あなたを愛している」ということが書かれていますが、私たちがいただいている浄土三部経も一貫して「生死を超えて、あなたを愛している」と説いてくださったお経です。生死を超えた愛が今まぎれもなく私の元に「南無阿弥陀仏」と届いてくださっているのです。

この世が堪忍土であるという事実は変わらないけれど、南無阿弥陀仏に込められた途方もなく深い愛がこの私一人に注がれていたと知らされていくところに、堪忍土の意味合いが全く違うものに変えられていくのです。

 人生を生きていく中で、心が折れてしまうこともある、挫けてしまうこともあります。そんな時、阿弥陀さまや浄土におられる大切な方々は「頑張れ」とは言いません。「ただあなたを愛している」と言ってくださるのです。

この度のお彼岸は改めて「南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながら、阿弥陀さまと浄土におられる方々の愛に出遇うご縁にしていただきたいと思います。

合  掌

(2022年9月6日 発行)