『法然聖人と親鸞聖人の絆』 読む法話 日常茶飯寺 vol.52

今年、2024年は浄土真宗にとって大きな節目の年であることをご存知でしょうか。実は浄土真宗が開宗(成立)したのは元仁元年(1224年)とされており、今年でちょうど800年なのです。

 浄土真宗を開いたのは親鸞聖人である、ということは歴史の教科書にも載っているほど、多くの方が知っていることです。が、しかし、親鸞聖人に言わせてみれば、「ちょっとちょっと!ちゃうちゃう!なんでワシやねん!浄土真宗を開いたのは法然聖人でんがな!」とおっしゃると思います。(親鸞聖人は京都生まれの関西人)

現に親鸞聖人はお書物の中で「浄土真宗を開いたのは法然聖人である」ということをおっしゃっています。

今月は、浄土真宗がなぜ成立したのか、その背景について書きたいと思います。

 親鸞聖人は9歳から29歳までの20年間、比叡山で求道されました。決して妥協を許さなかった親鸞聖人にとってその20年は、仏に一歩でも近づくために、聖者になるために、愚かな自分自身を凝視し否定に否定を重ねた20年でした。

しかし29歳の時、比叡山では救われない、と20年の学びを棄てて法然聖人を訪ねていかれました。

その時法然聖人は69歳。若い親鸞聖人を一目見て「こやつは只者ではない…」と思われたでしょう。この二人の出会いは、日本宗教史を揺るがす重大な出来事でした。

親鸞聖人はそれから35歳までの6年間を法然聖人のもとで過ごされました。90年のご生涯から見るとわずか6年という短い期間ではありましたが、この6年が親鸞聖人の人生をまるごとひっくり返してしまったのです。

「南無阿弥陀仏」このお念仏ひとつでどんな人も必ず救われていく道があることを法然聖人から聞いたのです。比叡山でどれほど尽くしてもどうにもなれなかった救われるはずのない自分自身を「そのまま救う」という阿弥陀さまとの出遇いに、膝から崩れ落ちるような思いを抱かれたことでしょう。

法然聖人はその教えを「選択本願念仏集(以下:選択集)」というお書物に著されました。しかし、選択集は当時の日本仏教の常識を覆してしまう革命的な著書であったため、お念仏の教えが誤解され、混乱を招いてしまうことを懸念された法然聖人は、限られた人にしか選択集を書き写すことを認めませんでした。その限られた人の一人が親鸞聖人だったのです。これは選択集の内容を完全に理解したと法然聖人に認めていただいた、ということです。

そしてこのお念仏の教えは瞬く間に民衆にも広がっていき、法然聖人の法話を聞きに老若男女大勢の人が集まるようになりました。

 しかしその状況にやはり仏教界から強い反発が起こってきました。その反発は徐々に加熱していき、ついには国家をあげての念仏弾圧にまで発展しました。

(この背景にはいろいろなことがあったのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います)

これが親鸞聖人35歳の時のことです。念仏をしたという罪で法然聖人の弟子4人が死罪、法然聖人は土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪(追放刑)という処罰が科せられました。

親鸞聖人はお念仏との出遇いを「この大いなるお念仏には、いくたびの生涯を重ねたとしても到底出遇えるものではありません。」と語っておられます。永遠の過去からいくたびもの生を重ねてきたこの命が、ようやく遇うべきものに出遇えた…と命の底からの感動を吐露されているのです。

そのお念仏を喜んだことで、なぜ人が死罪にならねばならぬのか。なぜ法然聖人と引き離されねばならぬのか…この時親鸞聖人はどれほどお辛かったことでしょう。

 越後での生活が4年を過ぎた頃、ようやく親鸞聖人の流罪の罪が解かれました。京都に戻ろうと思ったのも束の間、法然聖人がご往生なされたとの訃報の知らせが飛び込んできたのです。

そしてそれからほどなくして、京都の明恵(みょうえ)という高明なお坊さんが「摧邪輪(ざいじゃりん)」という書物を著しました。摧邪輪とは「邪な輪(法説)を摧く」という強烈なタイトルで、「法然聖人のお念仏の教えは仏教ではない」と痛烈に批判した書物でした。これが世間に大きな波紋を巻き起こしたのです。しかし、反論しようにも当の法然聖人はもうご往生なされ、この世におられません。

お念仏が誤解されている状況下で法然聖人に代わって泣く泣く筆を執ったのが親鸞聖人だったのです。親鸞聖人はそれから35年ほども推敲に推敲を重ねて「顕浄土真実教行証文類(以下:教行信証)」というお書物を完成されました。ちなみに私たちに馴染みの深い正信偈もこの中に収録されています。

この教行信証は明恵の摧邪輪やお念仏批判に対して、この末法の世においてお念仏の教えこそが究極の仏教であるということが完膚(かんぷ)なきまでに論じられているのです。批判への応答ということもあって、法然聖人がお説きになられた教えをさらに深化させた親鸞聖人独自の論が多分に説かれていたため、この教行信証を礎として後の人々によって「浄土真宗」という一宗が確立していったのです。この教行信証が完成したのが元仁元年、1224年のことであったとされています。

 しかし親鸞聖人には浄土真宗を開宗しようという意志はありませんでした。ただ、生涯をかけて師匠のご恩に報いようとなさっただけなのです。

お念仏の教えが誤解されている現実を心の底から悲嘆なさって、「私が法然聖人から聞かせていただいたお念仏とはこういうものである」と涙ながらに筆を執り、35年もの間心に抱き続けた志を貫徹なさった一世一代の超大作、この教行信証を、親鸞聖人は一体誰に読んでほしかったのでしょうか。

明恵でしょうか。それとも世の中の人々でしょうか。

私は、法然聖人ではなかったかと思うのです。

「お師匠さま、あなたがおっしゃりたかったことはこういうことですよね」と一番に法然聖人に教行信証を見せたかったのではないか。

一弟子として、一念仏者として、身を粉にしてお念仏を守り抜いたその姿を法然聖人に見てほしかったのではないかと思うのです。

教行信証の根底には、法然と親鸞という偉大なる宗教者の深い深い絆が刻まれているのです。

合 掌

(2024年4月8日 発行)