『我を忘れて地獄の底まで』 読む法話 日常茶飯寺 vol.29

 我が家は基本的に、お風呂は私が3人の子どもたちと一緒に入っています。先日、長男(8歳・小学校3年生)が次男(5歳・こども園年長組)の頭と体を洗ってくれました。長男がそのことを嬉しそうに妻(母親)に報告すると、妻も「えらかったね。もう二人でお風呂入れるやん」と褒めてくれました。それを聞いた長男も次男も目を輝かせて「ほんまや!明日から二人で入るわ!」と言いました。

それを複雑な気持ちで聞いていたのは、父親である私でした。

「そうかぁ〜、お父さんと一緒にお風呂に入るのは、今日が最後やったんかぁ」と言う私の言葉には「ほれ、やっぱり明日もお父さんと一緒にお風呂に入る、と言いなさい!」という私の願いが滲み出ていたことでしょう。

そんな私を見た妻は「これは子どもたちの成長なんやろうし、あたたかく見守ってあげようね。別にこれからもう二度とお父さんとお風呂に入らへんわけじゃないんやから」と、私の寂しさを慰めてくれました。

長男とは8年、次男とは5年もの間、首もすわらぬ頃から毎日当たり前に一緒に入ったお風呂では、いろんな話をしたし、いろんな遊びをしました。大きな声で歌を歌ったこともあったし、時にはお説教(法話ではない)をしたこともありました。そんな日々に、こんなにも突然終わりがくるなんて思ってもみないことだったのです。

改めて文字にしてみると、なんと情けない父親だろうかと思えてなりませんが、私の中では一大事件だったのです。

そんな私とは対照的だったのが、母親である妻でした。

私は「子どもの成長」と「自分の寂しさ」を天秤にかけて、「自分の寂しさ」の方を優先させてしまっていましたが、妻は「子どもの成長」を優先していたのです。考えてみれば、妻はきっと私より何倍もそういう寂しさを味わってきているはずですが、私みたいに寂しさを匂わせるようなことはありませんでした。

いつだって子どもの目線に立って、今この子は何に関心があるのか、どんな気持ちなのか、どんなことを楽しいと思うのか、何を美味しいと思うのか、そういう子どもの心の声を聞き逃さないよう、じっと耳を澄ましている妻にとって、子どもの喜びはまさに自分の喜びでもあるのでしょう。そこに親としての寂しさが無いわけではないけれど、子どもの喜びが第一で、自分の寂しさなどは二の次。

母親というのは子を思う時「我」を忘れている、そういう存在なのかもしれない、と思ったことでした。

阿弥陀さまには「我」がありません。この私のことを救いたいと立ち上がられた阿弥陀さまは、私のことを思うばかりに「我」が無いのです。

讃仏偈というお経があります。これは仏説無量寿経の中の一部分です。その讃仏偈の一番最後に

「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」

(たとえ我が身がどんな苦しみの毒の中に沈もうとも、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して後悔することはありません)

と説かれています。

これは阿弥陀さまが仏になる前、つまり修行者でおられた時に、仏になる決意を述べられたお言葉です。

あなた一人を救うためなら、どんな苦しみの毒の中に沈んでもかまわないというのです。火の中でも水の中でも、毒の中であっても、あなたを救うためなら喜んで飛び込みます、とおっしゃるのです。

この「苦しみの毒」というのは無間地獄のことを喩えています。

地獄には8つの世界があると説かれます。等活(とうかつ)地獄・黒縄(こくじょう)地獄・衆合(しゅうごう)地獄・叫喚(きょうかん)地獄・大叫喚(だいきょうかん)地獄・焦熱(しょうねつ)地獄・大焦熱(だいしょうねつ)地獄・無間地獄(または阿鼻(あび)地獄)の8つです。無間地獄とは8つの地獄の8番目、地獄のどん底なのです。

「地獄のどん底」と聞くと、炎が燃え盛っていて、マグマのような池がブクブクしてて、トゲトゲの金棒持っためちゃくちゃ大きくて怖い鬼がたくさんおるんやろうか、ひぇぇ怖いなぁ…なんて想像しますが、どうやらそうではないようです。

無間地獄は、誰もおらず、何もない真っ暗闇の中で、8万劫(4億3200万年の8万倍)という果てしなく長い時間を過ごさねばならない、という世界だと説かれます。

無間地獄に落ちた者は、「誰かいませんか、誰かいませんか」といくら呼んでも、返事どころか、どこからも何の物音もしない絶対の孤独の中で、「鬼でもいいから誰かいてくれ」と泣き叫ばずにはいられないそうです。

この無間地獄に比べれば、その他の7つの地獄など夢みたいなものだと説かれているほどに、想像を絶する苦しみを受けねばならない世界なのでしょう。

 なんと阿弥陀さまは、この私を救うためなら無間地獄に落ちたってかまわない、というのです。なんなら、あなたが地獄に落ちるのならこの阿弥陀も共に地獄に落ち、必ずあなたを救います、というのが阿弥陀さまなのです。阿弥陀さまがご一緒なら、もはやそこは地獄ではないでしょう。

さて、地獄というのは、架空の世界でしょうか。

「死んだこともないのに、死後に地獄があるなんて、今時そんなん信じられへんで〜!」と思う方もおられると思います。

けれども、今現に私たちが生きているこの世界が地獄と化すこともあります。今日一日を幸せに過ごす人もいれば、絶望の淵でなんとか生き抜いた人もいます。同じ景色を見ても、順風満帆に生きている人には極彩色に見え、悲しみの真っ只中にいる人には色が失われたように見えるものです。私たち一人ひとり、同じ世界を生きているようで、実はみんな別々の世界を生きているのです。

 縁次第で、地獄の苦しみを味合っていかねばならないのが人生である、そのことをお釈迦さまは「人生は苦なり」とおっしゃったのかもしれません。

けれども、いつ地獄と化すか分からぬこの私の人生に今、飛び込んできてくださったのが阿弥陀さまです。たとえどんな苦しみを受けようとも、どうしてあなたのことを見捨てることが出来ましょうかと、我を忘れてこの苦悩の人生に飛び込んできてくださった、それが私の口から出る「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

私がこの人生で味合わねばならない苦しみ、悲しみを、阿弥陀さまは共に味合ってくださっていたのです。

「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す中で、「見ていてくださる方がいた、共に泣いてくださる方がいた…」といただいた時、その苦しみも、その悲しみも、今までのものとは違うものに見えているはずです。

お念仏に遇うことによって、地獄にしか見えなかった景色さえも、間違いなく浄土へとつながる一本道であったと知らされるのです。

今月は「母の日」がありました。子を思うあまり我を忘れる母親の姿から阿弥陀さまのはたらきを味合わせていただきました。

合  掌

(2022年5月9日 発行)