『何者でもないという生き方』 読む法話 日常茶飯寺 vol.4
今回は「粗忽長屋(そこつながや)」という落語を通して仏教を味わってみたいと思います。仏教学者の梶山雄一先生の『菩薩ということ』という本の中で紹介されていた話です。
長屋にそそっかしい男二人が隣り合って住んでいて、その一人が浅草の観音さまにお詣りに行き、雷門を出てくるといっぱいの人だかり。人々の股ぐらをかいくぐって前へ出てみると、行きだおれである。その死人を見るなり、この男、「ああっ、おっ、これァ熊の野郎だ」と叫ぶ。隣りに住んで兄弟同然につき合っている熊さんだというのである。
熊さんは身寄りのない独身者だと聞いた世話人は、この兄貴分の男に、それでは貴方が行きだおれを引き取ってくれという。そそっかしやはああだこうだとごねたのちに、「じゃあこうしましょう。あの、ともかくここへ当人をつれてきましょう」と、わけのわからぬことをいって長屋へとんで帰る。
長屋には、前の晩へべれけに酔っ払って、どうして家に帰ったかもわからずに寝こんでしまった熊さんが、まだ朝寝をしているのだが、これを叩き起こして、浅草へ連れて行く。「当人がきたからどけてんだ」と人ごみをかき分けて、行きだおれを熊さんに見せる。
熊さんのほうも、「あっ、これはおれだ。やい、このおれめ、なんてまああさましい姿んなって……こんなことと知ったらもっとなんか食っときゃよかった」
世話人のとめるのもきかず、男は熊さんに行きだおれを背負わせて、長屋へ帰る。
途中、熊さんが言う。「なんだか兄貴、わかんなくなっちゃったな、これァ……背負われてんのはたしかにおれなんだが、背負ってるおれはいってえどこの誰だろう」
このお話を紹介して、「ほんとうの自己」を見失っているわれわれは、実はそこつ者の熊さんと同じではないか、と梶山先生は言うのです。
私たちが日頃、自分だと思っているものは、名前や肩書きであったり、家族や財産であったりする。それらは熊さんが背負った行きだおれと同じことで、ほんとうの自己ではない。熊さんは自分が死んだ、と思いこんだときにはじめて、ほんとうの自分を見失っていたことに気がついたのである、と。
落語の部分だけ読むと「おれはいってえどこの誰だろう」のところでクスッと笑えますが、後にある梶山先生の言葉を読むと「おれはいってえどこの誰だろう」の一言がズンと重みを増して聞こえてきます。
梶山先生は、名前や肩書き、家族や財産を通しての自分は「幻」であって、現代人は「ほんとうの自分」を見失っている、と言うのです。
確かに私は、自分はこういう名前で、周りからはこう呼ばれていて、社会の中でこんな責任を担っていて、過去にはこんなことをしていて、家族が何人いて、財産がいくらあって…、それが自分だと思って生きているように思います。
しかし、生きていく上で名前が変わったり、肩書きや家族や財産も増えたり減ったりしますから、その中で「自分」も知らず知らず変わっていきます。いつも温和な人が何かのリーダーになった途端に別人のように厳しくなったりするのは、肩書きに縛られて「自分」の立ち位置が変わるからなのでしょう。
そう考えると「自分とはこういうものだ」と思っている「自分」って周りとの関係によってコロコロ変わっていって終着点がありません。突き詰めて考えてみると、それは自分の身の周りが変わっているだけで、自分自身は何も変わっていないのではないですか。
それは粗忽長屋でいうところの背負われている自分であって、ほんとうの自分ではないということなのでしょう。
仏教ではそれを「迷い」と言います。迷いとは出口のないトンネルに入っていると言うことです。熊さんは名前や肩書き、家族や財産こそが人生の全てだと思って生きてきたけれど、「自分の死」という避けられない現実に直面した時に、置き去りにしてきたほんとうの自分に気がついたのです。名前や肩書き、家族や財産は必ず手放さねばならないことを痛感した時、じゃあ本当に大切なことは何だろうという大きな発見だったのです。これはきっと人間一人ひとりにとって時代や人種に左右されない大問題です。このことを御文章には「後生の一大事」とおっしゃるのです。
親鸞聖人は「何者でもない」という生き方をされたお方でした。
親鸞聖人はご自身について「私は僧侶でもなければ俗人でもない、ただ一人の愚か者です」とおっしゃって、その姿勢を生涯貫かれました。僧侶や俗人というのは肩書きの話であって、やはりほんとうの自分ではありません。名前や肩書き、家族や財産は問題とせず、ほんとうの自分から目をそらさなかったのが親鸞聖人です。その求道の末の結論が、「愚か者でしかない自分」だったのです。
何者にもなり得ない、愚か者でしかない自分との出遇いは、親鸞聖人にとってどれほどの絶望であったでしょう。しかし親鸞聖人は阿弥陀さまとの出遇いの中で、その絶望を喜びに転換されていかれたのです。
阿弥陀さまは、慈悲に優れた仏さまです。立派な人は救って、そうでない人は救いません、じゃないんです。愚か者ほど見捨てることが出来ないのが阿弥陀さまです。
2010年に南米チリの鉱山で地下700メートルのところに33人の作業員が閉じ込められるという落盤事故がありました。69日後に33人全員無事に救出されましたが、誰が先に救出されたと思いますか。当たり前のことですが、優先されたのは健康に問題があった人だそうです。お金をたくさん持っているとか、立場が上とかは関係なく、健康に問題があって早く救出せねばならない人が優先されるのです。
阿弥陀さまが救いの目当てとされたのも、立派な人間じゃありません。何者にもなり得ない、愚か者でしかない者こそ救わなきゃいけないじゃないかと涙を流し、立ち上がられたのが阿弥陀さまでありました。
阿弥陀さまのその視線の先にいたのは外でもない、この私親鸞でありましたと親鸞聖人は生涯喜ばれたのです。
私が如何に愚かであるか、そんなこと阿弥陀さまはとっくにご存知の上で、だからこそあなたを放っておけないんじゃないかと今私を抱いてくださる、それが南無阿弥陀仏のお念仏です。「愚かな私だからこそ決して見捨てることのない大きな安心に包まれた今、もはや何者である必要がありましょうか。私は何者でもないただ一人の愚か者の親鸞です。」と親鸞聖人はお念仏と共に、喜んで愚者を生き抜いたお方でありました。なまんだぶ、なまんだぶと一声一声お念仏を申す中に「私が私でよかった」という歓喜のお心を抱いておられたに違いありません。
「あなたは何者ですか?」と常に問われているような現代の息苦しさを感じながら、親鸞聖人の「何者でもない」という生き方が、私にはより一層輝いて見えるのです。
さて、これを読んでいるあなたはいってえどこの誰だろう?
合 掌
(2020年3月2日 発行)