『交差する命と声』 読む法話 日常茶飯寺 vol.64

 4月は多くの人にとって新生活がスタートする月です。我が家の三男、了安もこの4月から小学校に入学します。新品の制服に袖を通し、ランドセルを背負った姿を見ると、いつの間にこんなに大きくなったんだろう…と、嬉しい反面寂しい気持ちもあって、どこか胸が締め付けられます。これまでを振り返ってみると、本当にあっという間でした。

蓮如上人は御文章で「人の一生というものは朝露のように儚いものだ」とおっしゃっています。朝方、一枚の葉っぱに一滴の露が生まれ、その露がツーっと葉っぱを伝っていき、やがて葉先からポトリと落ちる、それほどに人生はあっという間だよ、と言うのです。もちろん人生色々なことがあったのだけれど、過ぎ去ってしまえば「あっ」という間なのかもしれません。

 さて、今号は「孤独」をテーマに書きたいと思います。私たちはコロナ禍という、歴史的にも非常に稀な数年間を過ごしました。コロナウイルスの蔓延をきっかけにして世の中が目まぐるしく変わっていきましたが、近年人と人との距離が離れつつあったのがコロナによってさらに加速したように思います。「孤独」の問題がぐっと私たちの身の上に重くのしかかってきたように思うのです。

しかし、コロナ以前は孤独の問題がなかったのかと言えばそうではありません。孤独というのは私たち一人ひとりが永遠に抱えてきた問題なのです。それが近年少しずつ浮き彫りになってきたように感じるのです。

 私の命は、いつからあるのでしょうか。

私はまず生年月日を思い浮かべました。私(住職)は昭和59年6月7日の生まれで、もうすぐ満41歳になります。(意外に若いんですね!と百発百中言われる)

けれど、生まれてくる前も母親のおなかの中で生きていたわけですから、生年月日から命が始まったわけではありません。じゃあ母親のおなかに宿った時だろうか…なんて考えたりもしますが、もはやそうなってくると私には分かりません。私たちは自分の命のことすらほとんど何も知らないのです。

 私の命はいつからあるのか、その問いに対して仏教は「無始(むし)以来」と説きます。私の命には始まりが無いのです。永遠と言っても過言ではないほどに果てしない過去から、いろんな命を生まれては死に、生まれては死に…それは海面に白波が立っては消え、立っては消えていくように生死を繰り返してきた。そして今、人間として生を受けて41年目を迎えようとしている、それが私なのだというのです。

私が生死を果てしなく繰り返してきたありさまが無量寿経にズバリと書いてあります。「独生 独死 独去 独来」

独りで生まれ、独りで死んで、独りで去って、独りで来たる。数え切れぬほどの命を生きてきたんだけれど、いつだって独りで生まれてきて、独りで死んできたのです。

けれど、どの一生も「世間の愛欲の中にいた」と説かれます。ある時は親兄弟に恵まれ、ある時は友人に恵まれ、ある時はパートナーに恵まれ、ある時は子や孫に恵まれ、出会いや別れを繰り返しながら愛欲の中で孤独を埋めながら生きてきたんだけれど、結局死によって引き裂かれてきたのです。そしてまた独りで生まれて、愛欲を貪って、また独りで死んで…愛欲が深ければ深いほどに、底無しの孤独を味わいながら、果てしない生死の海を彷徨い続けてきたのが私たち一人ひとりなのです。孤独を埋めるために愛欲を貪り、その愛欲によって孤独を深め、さらに愛欲を貪る…終わることの無い孤独の苦しみを抱えて私たち一人ひとり永遠のような時を過ごしてきたのです。

 しかし、永遠の過去から孤独の底に沈み続けてきた私の命を、永遠の過去からずっと喚び続けてくださった声があるのです。それが「南無阿弥陀仏」です。


 阿弥陀さまがなぜ仏になったか。それは、永遠の孤独の底に沈んでゆく私の命に気付いたからです。仏さまというのは数え切れないほどおられます。幾多の生死を繰り返してきた私たちは、きっと幾多の仏さまに出会い、手を差し伸べられてきたはずです。けれど私たちはそれが仏さまだと気付くことができず、それがどんなに尊いことかに気付くことができず、差し伸べられたその手を振り払ってきたのでしょう。

現代を生きる私たちだってそうではないですか。ともすれば、「仏がどうした、浄土がどうした」「そんなもんにすがって何の得があるんだ」と言い切ってしまう、そういう心を持ってはいませんか。それがどんなに尊いものかを見抜くことができない自身の愚かさを問題とせず、自分の見方こそが正しいと慢心した人にとっては仏さまなど必要ないのです。

そうやってどの仏さまの手にも負えず、永遠の孤独の底に沈んでゆく私の命を「必ず救う」とお立ち上がりくださったのが阿弥陀さまです。どの仏さまにも救えなかった私を救うと言うのですから、これはとんでもないことです。阿弥陀さまは考えました。それはそれは途方もなく長い時間をかけて考え続けました。「どうすれば孤独の底に沈みゆくこの者を救うことができるだろうか…」と。

悩みに悩み抜いた末に、

「そうだ、言葉になろう。言葉になってあなたの命を喚び続けよう。この声があなたに届くまで、どれだけ時間がかかってもかまわない。あなたを救う、あなたを救う、この声があなたに届くまで、私は永遠にあなたの命を喚び続ける『南無阿弥陀仏』という言葉になろう」と、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という言葉の仏さまになられたのです。

阿弥陀さまが南無阿弥陀仏という言葉になられたのは果てしない過去のことであったといいます。

それはつまり、私たちが永遠の過去から孤独の底に沈み続けてきた間、ずっと私の命を喚び続けてくださっていた、ということです。私たちはずっとその喚び声の中に生きてきたのに、その声を聞こうともせずに、愛欲を貪ってどうにもならない孤独を背負って生死を繰り返してきたのです。

けれど、その間も阿弥陀さまはずっと絶えることなく「あなたを救う、あなたを救う」と喚び続けてくださって…今私たちはやっと、やっとその喚び声を聞いた、それが「南無阿弥陀仏」なのです。永遠の過去から孤独の底を彷徨い続けてきた私の命と、永遠の過去から私の命を喚び続けた阿弥陀さまの声が、永遠の時を超えて今この瞬間にやっと交差したのです。

私の生死を貫いた喚び声に私たちは今生やっと出遇わせていただいたのです。

南無阿弥陀仏とお念仏をいただく時、永遠の過去、そして現在、そして未来永劫、決して私の命は孤独ではなかった、と自分の命そのものに頷きが与えられてゆくのです。

合 掌

(2025年4月6日 発行)