『人生のたて糸』 読む法話 日常茶飯寺 vol.61
私たちが普段当たり前に「お経さん」「お経さん」と呼んでいる、この「お経(経典)」という言葉はインドに古くから伝わるサンスクリット語という言語の「スートラ」という言葉からきています。このスートラには「たて糸」という意味があるそうです。
織物(布)を織るとき、まずたて糸をピンと張って、そのたて糸に対してよこ糸を編み込んでいって布が出来上がっていきます。
このたて糸がピンと張られていなかったら、どんなに綺麗なよこ糸を使ってもぐちゃぐちゃの布になってしまいます。けれど、たて糸がピンと張られていると、色とりどりのよこ糸が調和し合って美しい布が出来上がるのです。
ちなみに織物の業界では「縦糸・横糸」ではなくて「経糸・緯糸」と書くそうです。やはりそのルーツはインドの「スートラ」にあるのでしょう。
人生には「まさか」という坂がある、と言いますが、昨年は元旦から能登の地震があり、「まさか」で始まった一年でした。私の身の回りにもたくさんの「まさか」があった一年でした。人生というのは、本当に何があるか分かりません。
けれど、その「まさか」の連続の人生にストンとたて糸が通された時、その「まさか」を「ご縁でした」と合掌し、頷いていける。その人生のたて糸となってくださるのがお経なのです。
昨年の報恩講法要の中でご講師の谷川先生が星野富弘さんという方の詩を紹介されました。とても印象に残ったので、ここでも紹介させていただきます。
よろこびが集ったよりも 悲しみが集った方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が
真実に近いような気がする
しあわせが集ったよりも ふしあわせが集った方が
愛に近いような気がする
きっと星野さん自身がどうしようもない絶望の底を嘗めながら生きてこられたのでしょう。そうでなければこんな詩が生まれてくるはずがありません。
そりゃ誰もが平穏無事に過ごせることを願うでしょう。平穏無事に過ごせたなら、そんな有り難いことはないですよね。
けれど、平穏無事に過ごせなかったら不幸なのかと言えば、人生はそんな単純なものではないことを星野さんは教えてくださいます。
悲しみがあっていい。弱い自分でもいい。ふしあわせでもいいじゃないか。そこからしか見えない景色があるでしょう。その立場に立ってみないと気づけなかったことがあるでしょう、と、平穏無事ではない人生だからこそ開拓されていったあまりに豊かな人生の深まりが表現された詩に涙が滲んできます。
阿弥陀さまは「苦悩の有情を見捨てることができなくて」と説かれます。
「苦悩の有情」とは、苦悩を背負いながら生きる心ある者、つまり私たちのことです。苦悩に沈む私たち一人ひとりの存在に気付いてくださった阿弥陀さまが「どうしてあなたを見捨てることができるでしょう」と私に涙を注いでくださる、その涙が南無阿弥陀仏のお念仏です。
若いうちはこんな話を聞いても「なんやそれ」と一蹴しておしまいでしたが、年を重ねていくとなんだか妙に心に響いてくるんだよなぁ、なんてことがありませんか。
それはやはり私たちが、一日一日を、一年一年を精一杯“生きてきた”からではないでしょうか。誰にも分かってもらえない悲しみを背負い、弱い自分に落胆し、ふしあわせが何であるかをこれでもかというほどに噛み締めて生きてきたからこそ、苦悩の有情を見捨てることができなかった阿弥陀さまの言葉が響いてくるのです。
阿弥陀さまの言葉に出遇ったら、このどうにもならない苦悩が無駄ではなかったと気づかされていくのです。
この人生に「南無阿弥陀仏」というたて糸が通されたなら、「まさか」「まさか」の人生が「ご縁でした」と合掌して頷いていける人生へと転じられていくのです。
無駄な糸など一本もない、あまりに美しく豊かな人生が織りなされていくのです。
合 掌
(2025年1月5日 発行)