『秋の夜空に極楽浄土』 読む法話 日常茶飯寺 vol.57
9月を迎え、いろいろなところに夏の終わりを感じるようになりました。
先日、西福寺前坊守 尾野明美の一周忌の法事をお勤めさせていただきました。
法事の準備をする中で前坊守との思い出を色々と思い返していました。
昨年の8月に入ってすぐに前坊守は体調を崩し、病院に入院しました。いろいろと検査をしていただいたのですが、「特に悪いところが見当たらないので、きっと身体が最期を迎える準備をしているのだと思う」とお医者さんからお話がありました。病院にいても特に治療することはなく、できることと言えば点滴くらししかない、とのことでしたので、それなら自宅へ帰ろうということで準備をし、8月23日に退院し自宅へ帰ることができました。
その時はもうベッドから動くことはできませんでしたが、入院中は会うことができなかった大好きな3人の孫たちに会えて嬉しそうにしていました。孫たちはたくさん、たくさん頭や顔を撫でてもらいました。
前坊守が寝ていたベッドから見えるところにカレンダーがかけてありました。そのカレンダーはもう何年も続けて愛用していたカレンダーで、月ごとに挿絵が描いてあるのです。「九月の挿絵は何が描いてあるかな」と前坊守はそのカレンダーをめくることを楽しみにしていました。
今思い返してみると、あの時、家族の誰も「ちょっとめくって見てみようか」と言い出さなかったのは、前坊守への思いやりが家族みんなの胸の内に共通してあったのだと思います。
そしてとうとう、そのカレンダーをめくる時がやってきました。
8月31日の夕方頃だったでしょうか。家族で前坊守を囲んで穏やかな時間を過ごす中で「8月も終わりだから、もうカレンダーめくってもいいよね」そう言って、前坊守と家族みんなが見守る中私がカレンダーをめくりました。
そこには、空にまんまるに輝く美しい満月とそれを見上げるウサギの絵が描いてあったのです。中秋の名月を見事に表現した綺麗な絵でしたので、前坊守も私たちも「わぁ」と小さな歓声をあげました。
「もう秋がくるんですねぇ」と話した翌日の9月1日に、前坊守は静かにお浄土へ参っていきました。
「仏教は諸行無常(しょぎょうむじょう)を説きます。この世は常なるものは何一つとしてなく、生まれた者は必ず死なねばなりません。出会ったならばいつか必ず別れの時がやってきます。それは今日かも明日かも、誰にも分からない。そういう世界に私たちは生きているんですよ」
法衣を身にまとい、仏教を知ったような顔をしてえらそうに人様に対して言ってきた言葉が「お前はどうなんだ」と自分自身に突き返されたような気がします。
親鸞聖人が心から尊敬された7人のお坊さん(七高僧といいます)の一人に中国の善導大師(ぜんどうだいし)という方がおられます。この善導大師のお書物の中に「帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停まるべからず。仏に従ひて本家(ほんけ)に帰せよ」という言葉があって、親鸞聖人もご自身のお書物の中に引用しておられます。
これは「さあ、帰りましょう。他郷にいつまでも長居するべきではありません。仏さまの導きに従って、命の故郷へ帰ろうじゃありませんか。」
という意味のお言葉です。
善導大師は、私たちが生きているこの世界を「他郷」と呼び、私たちの命が往(ゆ)くべきところ、お浄土のことを「本家」とおっしゃったのです。これは仏教に出遇った人でなければ決して言えないことです。
他郷とは落ち着かない世界ということでしょう。
例えば古くからの友人の自宅での食事会に招待されたとします。「よく来てくれた!まぁゆっくりしていってくれ」と歓迎され、食べきれないほどの豪華なご馳走が用意してあって、グラスが空けば次々にお酒を注いでくれる…すっかり良い気分になって何時間もそこに居座ってしまうとどうですか。
「あの人いつになったら帰るんだろう」なんて誰も口には出さないけれど何かよそよそしい空気が伝わってくると落ち着かないですよね。
空気を読んで「それじゃこの辺で失礼します」と言うと「えぇ〜!もっとゆっくりしてくれたらいいのに〜」と言われる。そこで「え?そうですか?それじゃお言葉に甘えて、もう少しゆっくりさせてもらうとするか!」なんて言おうものならその場の空気が一瞬にして凍りつくことでしょう。
なぜ落ち着かないかと言えば、やはり私が私のままで認められない場所だからじゃないでしょうか。大なり小なり、他所へ赴くということは、状況やその場の空気を読んで自分を偽らねばならないということです。
まさに私たちが生きているこの世界は、私が私のままで認められない世界です。老・病・死は避けることができないと知りながら、病を背負う自分、老いていく自分、死にゆく自分を自分自身が認めることができず、最後の最後まで落ち着かない世界を他郷とおっしゃったのです。
それに対して善導大師は、私たちの命の往くべきお浄土を「本家」と表現されました。他郷は私が私のままで認められない世界なら、本家、お浄土はどんな私であってもその私のままで迎えられる世界です。
私たちの命はお浄土から来たからお浄土へ帰ろう、というのではありません。私の命は永遠の過去からいろんな命を生まれては死に、生まれては死に他郷の中をさまよい続けてきた命です。その果てしない過去から私の命をずーっと待っていてくださった方が阿弥陀さまなのです。
待っていてくださる方の元へ帰るのに、身だしなみを綺麗にしたり、手土産を用意する必要があるでしょうか。逆ですよね。他所へ出かける時に身だしなみを整え、手土産の一つでも用意するのです。阿弥陀さまの目当てはお土産でも何でもなく、「私」なのです。私がどんなにボロボロでも垢だらけでも、「よく帰ってきたね」と泣いて抱きしめてくださるのが阿弥陀さまです。
阿弥陀さまは永遠の過去から他郷をさまよう私に向けて、「あなたを救う、あなたを救う」とずっと喚(よ)び続けてくださっていたといいます。その喚び声が「南無阿弥陀仏」です。その南無阿弥陀仏に従って、この命を終えるとき誰一人漏れることなく命の故郷、お浄土へ帰らせていただくのです。
カレンダーをめくった翌日にあっさりとお浄土へ往った前坊守。
前坊守はあのカレンダーの満月にお浄土を見て、決心したのかもしれません。
「さぁ帰ろう。長い間、他郷にてお世話になりました。阿弥陀さまに抱かれてお浄土へ参ります。寂しく思わないでよ。お浄土で仏さまになって、今までよりもっともっとあなた達の側にいられるのだから」と。
合 掌
(2024年9月8日 発行)