『浄土真宗は諦めの教え?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.55
西福寺がインターネットを利用したS N S、インスタグラムを始めてから1年が経ちました。坊守が毎朝欠かさず更新を続けて、現在驚くことに1200人を越える方が西福寺のインスタグラムを見てくださっています。
先日、そのインスタグラムを通じて、ある方が質問をくださいました。とても大切な質問だと思いましたので、今号のテーマにさせていただきます。
「念仏の教えは現世での幸せを諦めて来世において極楽浄土での幸せを願う教えでしょうか。念仏を称えることでどうなっていくのか?念仏を称えることで病気が治りますか?貧乏は抜け出せますか?人間関係の悩みは解決できますか?綺麗な言葉だけではなく念仏することで何か結果が出ますか?やはり諦めの教えなのですか?」
という質問です。お念仏によって何がどう変わるのか、これは私も仏教を学び始めた頃ずっと抱えていた疑問でしたし、同じように思われている方も多いのではないかと思います。
浄土真宗の教えをざっくり言うと、
「私たちの苦悩の原因は煩悩である。その煩悩は死ぬまでなくならないが、お念仏によってどんな人であっても命を終えたら必ず極楽浄土に生まれて仏さまにならせていただく」
と言えると思います。そう聞くと確かに、現世はどうしようもないから諦めて、来世での幸せを願ってお念仏しましょうと言っているように聞こえますよね。けれども、もし浄土真宗が現世での幸せを諦めて来世での幸せを願うような宗教ならば、私は今すぐにでも法衣を脱いで浄土真宗の僧侶を辞めますし、そんな宗教を信仰するつもりもありません。私にとってお念仏の教えは、限りなく「今」にフォーカスされた教えです。
例えるなら、大学受験真っ只中の高校生のもとに志望校からの合格通知が届いたらどうでしょうか。合格通知が届いた時点ではまだ高校生です。4月にならないと大学生になれないから今はまだ喜びはありません、なんてことがあるでしょうか。
確かにまだ大学生になってはいません。けれど、高校生でありながら間違いなく大学生になる身になった、行き先が定まったその瞬間に喜びがあるでしょう。
浄土真宗もそれと同じ構図で、私がお浄土で仏さまにならせていただくのは命終えた後の未来の話ですが、命の行き先を知らされるのはお念仏いただいた「今」です。私の命は仏さまになる命であった、そして先立ったあの人がいるお浄土へ私も必ず生まれていくんだ、と知らされるのは「今」以外にないのです。むしろ、今日聞いて今日喜べる究極の教えだと思います。浄土真宗は決して現世での幸せを諦める宗教ではない、ということです。
質問には、もう一つ大切な問いがあります。お念仏を称えるとどうなっていくのか?病気が治るのか、経済的に豊かになるのか、人間関係の悩みが解決するのか。何か実感するような結果が現れるのか。お念仏によって現世で受ける利益とは何なのか、という問いです。
結論から言うと、お念仏を称えることによって病気が治ることはありませんし、経済的に豊かになることも、人間関係の悩みが解決されることも残念ながらありません。
むしろ仏教は「人生は不如意(ふにょい)、つまり、思い通りにならないぞ」と説きます。病気にもなるし、お金に困ることだってある。人間関係に悩むこともある。そこでどんな宗教に頼ってみても、何に頼ってみても、私の都合の良い願いが叶うなんてことはない、というのが仏教の立場です。
だからと言って、思い通りにならない現実を受け入れて生きていけるでしょうか。人生は思い通りにならないと聞いても、それでもなんとか少しでも思い通りにしようと日々奔走しているのが私たちの姿じゃないですか。思い通りにならないことを思い通りにしようともがくこと、それは終わることのない苦悩の連鎖にがんじがらめになっていくことに他ならないのです。「人生は不如意だ」と説いたお釈迦さまの目には、「思い描いた未来はこんなはずじゃなかった」と落胆しながら人生を終えていく私たちの姿が見えていたのでしょう。
その苦悩の連鎖にがんじがらめになっている私たちに阿弥陀さまが「そのまま救う」と喚(よ)び続けてくださる声が「南無阿弥陀仏」です。苦悩の連鎖をふりほどいてこいと言うのではなく、がんじがらめになっている「そのまま」とおっしゃるのです。思い通りにならない私自身も私の人生も、丸ごと阿弥陀さまは抱いてくださるのです。決してこのままでいいはずのない私たちに「そのまま救う」とおっしゃってくださるのです。
私が称えるお念仏は「結果」です。「あなたを救う、あなたを救う…」と果てしない過去から私を喚び続けてくださった阿弥陀さまの声が今やっと私の口に「南無阿弥陀仏」と届いた、これが阿弥陀さまの願いの終着点です。決して、お念仏は称えた先に何かが起こるという「過程」ではないのです。
ですから、お念仏を称えたらどうなるのかというのは十人十色だと思います。お念仏を喜んで喜んで生きている人もいるし、その反面、お念仏を称えて「それがどうした」と言う人もいます。
お念仏があまりに深いのは、そのどちらの人も阿弥陀さまは救ってくださるというところだと思います。これがお念仏が結果であり、「そのまま」ということでしょう。どこか私たちは宗教を信仰する上で、現状の自分を否定して有り難い人に変わっていかねばならないという風に思うところはないですか。私もお坊さんとして歩み出した若い頃、いかにも有り難いような顔をしなきゃいけないんじゃないかという思いがありましたが、それは見栄であって本当の自分ではありませんね。有り難いと思っていようと、思えなくとも、お念仏が届いているということは紛れもなく私がそのまま救われるということです。「あなたはあなたのままでいい」そういう阿弥陀さまの呼びかけに出遇(であ)うことで初めて私が私でいられる、もしかしたら人生を生きていく上でこれこそ一番大切なことではないかと思います。
先月、子ども達を連れて近くの川に蛍を見に行きました。ゆらゆらと飛ぶ蛍の光が川に映って、なんとも儚く美しく涙が出そうな光景でした。
蛍は昼間は寝ているそうですが、もし仮に昼に蛍が光っていたとしても周りが明るいせいでその光にはきっと誰も気がつかないでしょう。けれど、夜になって闇が深くなるほどに、命いっぱいに光を発する蛍の光はあまりに美しく見えて私たちの心を打ちます。蛍の光自体は昼も夜も変わりません。違うのは闇でしょう。蛍の光に感動するところに、闇そのものにも大きな意味があったと知らされるのです。
何事も思い通りになる人生ならば念仏の「ね」の字すらなく、有り難くも何ともないでしょう。この人生が思い通りにならないからこそ響いてくる「そのまま救う」の喚び声、南無阿弥陀仏です。思い通りにならない人生に事あるごとに涙してきた、その涙があったからこそお念仏に出遇えたのだ、と味合われた時、その涙に大きな意味があったと知らされていくのです。
思い通りにならない自分自身に、そして人生に、「これでよかった」と頷きが与えられる、現世においてこれ以上のご利益はないでしょうと親鸞聖人は生涯喜ばれ、その喜びを私たちに伝えてくださっているのです。
合 掌
(2024年7月9日 発行)