『大往生と小往生?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.54

 一休さん、と言えば昭和生まれの方なら誰でも知っていますよね。

一休さんはアニメにもなったお坊さんで、室町時代に臨済宗の名僧として活躍されました。アニメの通り、とても頭の切れる方であったようです。

その一休さんの逸話にこんな話があります。

あるお金持ちの商人が一休さんに「今度家を建てるんだが、何か一筆めでたいことを書いてくれませんか」と頼みました。一休さんは「いいですよ」と言って筆をとってスラスラと紙に書いて商人に渡しました。その紙を見た商人はカンカンになって怒りました。そこには「親死 子死 孫死」と書いてあったのです。「私はめでたいことを書いてくれと言ったんだ!それが何だ、死ぬ死ぬ死ぬなんて縁起でもない!」怒鳴る商人に対して一休さんは言いました。「それじゃあ何か、あんたは『孫死 子死 親死』の方がめでたいって言うのかい?」

 こういうお話です。一休さんが言いたいのは、「親が死んで、次に子どもが死んで、そして孫が死ぬ。年の順番に命を終えていく、こんなめでたいことがありますか」ということでしょう。

誰しも生きている以上は必ず死なねばなりません。それは明日かもしれないし、10年後かもしれない、けれどいつかは必ずやってくる死を背負って今を生きているのです。誰が先か後かも分かりません。そういう中で逆縁と呼ばれる、あまりに厳しい現実に直面しておられる方がたくさんおられます。お子さんやお孫さんを若くして亡くされる、その悲しみの深さはきっと誰にもはかり知ることなどできません。

私自身僧侶として、親鸞聖人はどうお考えになられていたのか、そのことを尋ねる日々を過ごしています。親鸞聖人がお書きになられた和讃(歌)に

 「南無阿弥陀仏をとなふれば

  この世の利益(りやく)きわもなし

  流転輪廻(るてんりんね)のつみきえて

  定業(じょうごう)中夭(ちゅうよう)のぞこりぬ」

というものがあります。

南無阿弥陀仏のお念仏をいただく者は、この世においてこれ以上ないご利益、例えば宝くじの一等が当たるとか、不治の病が治るとか、そんなものとは比べ物にならないご利益をいただく、というのです。

それはどんなご利益なのかというと、まず流転輪廻の罪が消えることだといいます。仏教では、私たちの命はオギャアと生まれた時から始まった命ではなくて、永遠の過去から果てしなく生死を繰り返してきた命だと考えます。幸せが何であるかを知らず、苦しみの中を延々と彷徨ってきたのが私たちなのです。簡単に言えば、この苦しみの循環から抜け出せないことを流転輪廻と言い、抜け出すことを解脱とか悟り、救いと言ったりします。仏教が言う罪とは、私たちが思うような犯罪のようなものではなくて、永遠の過去から真実に背を背けてきたことを罪というのです。

その流転輪廻の罪が消えて、定業中夭が除かれる、というのです。定業というのは、定められた寿命ということで、中夭というのは若くして亡くなるということです。

このお言葉をそのまま受け止めると、お念仏したら若くして亡くなることが除かれる、つまり長生きができると言っているように聞こえますが、そうではないと思います。誰しも明日さえ分からない無常の命を生きているのですから。

では定業中夭が除かれる、とはどういうことなのか。

皆さんは「大往生」という言葉を聞いたことはありませんか。私はよく耳にします。これは声を大にして言いたいのですが、大往生という言葉は仏教語ではありません。私が知る限り、お経のどこにも大往生という言葉は出てきません。もちろん「往生」は仏教語、つまりお釈迦さまのお言葉です。そのお釈迦さまが往生とおっしゃったその頭に私たちが「大」という字を勝手につけたのです。

では大往生って何でしょう。長寿の方が亡くなられた際に使われる言葉ですよね。その別れは悲しいけれど、それだけの長寿を生き抜かれたことは立派なことじゃないか、と死別を受け入れるため、またご遺族を慰めるために使われているように感じます。

けれども、「大」があるということは「小」があるということです。大往生と言うなら、小往生という概念も必ず背後にあるはずです。

じゃあ小往生って何だ、と言えば、私は「定業中夭」ではないだろうかと思うのです。

日本人の平均寿命は令和4年の時点で男性が81.05歳、女性が87.09歳だそうですが、これはあくまで「平均」ですから、大体みんなこれくらい生きられますよということではありません。そんなことは頭では分かっているんです。分かっているんだけど、どこかで平均寿命というものさしで命を測ってしまう自分はいませんか。平均寿命より長く生きた方に対して「大往生」と言い、平均寿命よりも短くしか生きられなかった方に対しては「大往生」とは言わずに「気の毒だ」とか「かわいそうに」と、胸を痛めている。あまりに若い死に対してはどう受け止めればよいのか分からずにただただ立ち尽くす…。

確かに、そういう感情が出発点となって人と人が寄り添い合って悲しみを乗り越えていこうとする、そのための大事なプロセスだし人間の美しさだと思います。

けれども誤解を恐れずに言うと、そういう感情の根っこには「命に善し悪しをつけようとするものさし」があるのではないでしょうか。平均寿命よりも長く生きたからと言ってそれが幸せかどうかは誰にも分からないし、平均寿命より短い命であったとしてそれが不幸だなんて誰に言い切れるでしょうか。

命は生と死の両面があって一つの命なのに、その命のほんの一部だけを見て、善し悪しをつけているのが私なのでしょう。親鸞聖人が言う、定業中夭が除かれるというのは、平均寿命に縛られていたり、命の長短で命に善し悪しをつけようとするものさし自体が間違っていた、と知らされていくということではないかと思うのです。

 私たちは誰も死が何であるかを知りません。漠然と迫りくる得体の知れない黒い影にただただ不安と恐怖におののくばかりです。だから私たちは生を肯定し、死を否定する、ここが仏さまと全く違うところです。仏さまは死を否定しないのです。生も死も含めて一つの命であり、その命のどれもが等しく尊い、とおっしゃいます。死もまた尊いとなぜ言えるのか、それは、死んで終わる命ではなくて、必ず浄土に生まれて仏になる命だからでしょう。何の心配もない本当の幸せの境地へ入っていく命だからでしょう。生も死も見通したお釈迦さまの目から見て「大往生」も「小往生」もないのです。

「往生には大も小もない」そう聞いても、人の死を受け入れることなんて到底出来ずに、無意識に心の中で人の往生に勝手に大往生だと納得しようしたり、定業中夭に縛られている私です。相変わらず平均寿命に縛られている私です。けれども、やり場のない悲しみに立ち尽くす度に「あぁ、このものさしが間違っているんだった」と知らされていくことに大事な意味があると思うのです。

「あなたを必ず仏にする」と阿弥陀さまは私たちの命に大も小もつけなかった。それは私たち一人ひとりの命を真に大事に思ってくださるが故の究極の優しさなのです。

合 掌

(2024年6月5日 発行)