『五十三仏と法蔵菩薩』 読む法話 日常茶飯寺 vol.53
日常茶飯寺も今号で記念すべき53号になりました!
…53号って中途半端な数字なのに何を言っているんだ、という感じですが、この53という数字は浄土真宗が一番の拠り所とする『無量寿経』の中で大切な意味を持つ数字なのです。
この無量寿経には、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者が阿弥陀如来という仏になっていく物語が説かれているのですが、その中に五十三仏(ごじゅうさんぶつ)と呼ばれる箇所があるのです。西福寺では、お逮夜(たいや)参り(月命日のお参り)に伺ったお宅でこの五十三仏を拝読しています。今号は、この五十三仏にまつわる法蔵菩薩の物語をご紹介したいと思います。
今からはかり知ることのできないはるか昔に、錠光(じょうこう)如来という仏さまがおられて、数限りない人々を導き悟りを得させて、やがてその寿命を終えこの世を去っていかれました。そして次に光遠(こうおん)如来がお出ましになり、その次に月光(がっこう)如来、その次に栴檀香(せんだんこう)如来…と53人もの仏さまの名前が列挙されるのです。その仏さま方にはみな寿命に限りがあって、今はもうこの世を去られているといいます。そして54番目にお出ましになったのが「世自在王如来(せじざいおうにょらい)」という仏さまです。
ある時、一人の国王が世自在王如来のお説教を聞いて、心から感激し、自分も世自在王如来のように人々を救いたいと思い立ちました。同時に、いかなる財力や権力をもってしても人々の苦しみを根本から救うことは不可能であるということに気付き、国・王位・家族・財産、何もかもを捨てて修行者(菩薩)として仏道を歩み始めました。彼は名を「法蔵」と名告ったのです。正信偈に出てくる「法蔵菩薩因位時」がこのことです。
法蔵菩薩は世自在王如来の元へ赴き、礼拝して「あなたはこの上なく尊く優れたお方である」と世自在王如来をほめたたえます。そして「私もあなたのように仏となって全ての人々を救いたい。仏になって生死の苦におののく全ての人々に大いなる安らぎを与えます。そして計り知れないほどの数限りない仏さまの国々があろうとも、そのどの国よりも優れた国(極楽浄土)を建立し、我が国に生まれたいと願う者はどんな者であっても必ず生まれさせます。さぁ、世自在王さま。私の志を認めてください。私はこのように願いを立て、必ず果たし遂げます。もしこの道がどんなに果てしなく、地獄の苦しみに身を沈めることになろうとも、決して後悔することはありません。」と自らの志を世自在王如来に表明するのです。
すると世自在王如来が言います。「あなたが立てた願いはあまりにも果てしないことです。それは例えば、この世界中の海の水を升ですくって、海の底にある宝物を手に入れるほどに果てしないことです。あなたはそれを成し遂げようと言うのですか」
この例えを想像してみると、升ですくった水はどうすんねん、というツッコミが私の頭に浮かびました。海の水を全てすくうのなら、そのすくった水を入れるための地球規模の容器を用意せねばなりません。そしてその容器を用意することができたとしても、升で一杯ずつ海の水をすくっているうちに世界中の川から次から次に水が流れ入ってくるでしょう。当然、雨だって降ります。
つまり世自在王如来は「終わらないよ」と言いたいのだと思います。
「終わりのない永遠の行をあなたはやろうとしているのですよ。それでもやるのですか」と問うのです。
「やります。全ての人を救うまで私はこの行をやめません。もし一人の命でも見捨てるようなことがあったら私は仏にはなりません」
決意の固い法蔵菩薩に世自在王如来は言いました。
「素晴らしい。たとえ果てしない行だとしても、その歩みをやめないのならばあなたは必ず果たし遂げるでしょう」
このようなやりとりが説かれます。これが正信偈に「在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶっしょ)」と説かれています。(物語はまだ続きます)
話を今に戻します。今、人間として生きている私たちはこれまで、いろんな命を生まれては死に、生まれては死に、生死を果てしなく繰り返してきた、と仏教はいいます。
独りで生まれ、独りで死んで、どうにもならない永遠の孤独に沈んできたのが私だというのです。その中で、私たちはきっと幾度となく五十三の仏さま方に出会ってきたはずです。けれど、その尊さに気付くこともできず素通りしてきたのでしょう。なんなら今現在も私たちは素通りしようという心がありませんか。そうやって私たちは永遠の過去から、自分という殻を破ることができず真っ暗闇の孤独の中を彷徨ってきたというのです。
逆に言えば、五十三の仏さま方をもってしても救えなかった命が私であるということでもあります。その私の命を救うとなると、五十三の仏さま方よりも超え優れた仏にならねばならないということでしょう。
そのためにはまず、寿命が無限でなければなりません。寿命に限りがあるならば、仏さまと同じ時代に生まれた人しか救われないのです。次に、空間を超えなければなりません。仏さまの側にいて直接教えを受けた人は救われても、遠い海の向こうにいる人は仏さまに出会うことすらできません。そして、易しい教えでなければなりません。もし、「野球でホームランを打ったら救いましょう」と言われたら、メジャーリーグで活躍する大谷翔平さんならできるけれど、私にとってはあまりに難しいことです。どんな命も分け隔てなく救うと言うのなら、誰にとっても易しいものでなければなりません。
法蔵菩薩はこれらのことを考えて考えて考えて、考え抜いて、「南無阿弥陀仏という言葉の仏になる」という方法を選び取られたのでした。
阿弥陀さまはどこか遠いところにおられるのではありません。お仏壇の中におられるのでもありません。私ひとりを救うために、時間と空間を超えて「南無阿弥陀仏」という言葉となって今私に届いてくださっているのです。
私たちが永遠の過去から抱えてきた孤独の闇が「南無阿弥陀仏」のたった一言によって破られていくのです。
合 掌
(2024年5月9日 発行)