『日常茶飯寺とは』 読む法話 日常茶飯寺 vol.1
この度、西福寺報(新聞のようなもの)を発行することになりました。内容は行事のご案内と読む法話です。西福寺の行事は基本的に年4回、三月に永代経法要、四月に別永代経法要、八月に布教大会、十一月に報恩講法要の4回です。そのうちの別永代経法要はその年に年忌(○回忌)が当たっているお宅に戸別にご案内をしますので、その他の三回の行事のご案内の時にこの日常茶飯寺を発行したいと思っております。冬の間は今のところ行事がありませんが、冬にも発行できたら春号・夏号・秋号・冬号と…なんかイイ感じだなぁと思ったりしています。なので年に3〜4回発行予定です。
うすうすお気づきかもしれませんが「日常茶飯事」という言葉をもじって「日常茶飯寺」というタイトルをつけました。学生さんがいらっしゃるお宅は気をつけてください。テストに「日常茶飯寺」と書くと不正解ですからね。
日常茶飯事という言葉は「ありふれた事柄」という意味があります。なるほど、よくよく字を見てみたら日常の中でお茶やご飯は毎日欠かさずいただくものですから、それくらいありふれた事柄ということなのでしょう。そのお茶やご飯と並んだのがお寺!お茶、ご飯、お寺!どういうこっちゃと思われるかもしれません。ここではお寺=仏法という思いで寺の字を付けました。
そもそも、お寺ってどんな場所でしょう。アレやコレや言い出せば色々あると思いますが、一つは仏法を聞く場所がお寺です。住職の仕事は歴史的建造物としてのお寺や伝統を守ることではなくて、仏法を聞く場としてのお寺を守ることなのです。古いものを残すことも大切だけど、時代に応じて変化していくことも大切です。お寺なんて古臭ぁ〜なんて言うと住職は影で泣いています。
とにかく日常茶飯寺の寺=仏法とします(無理矢理)。
「み教え(仏法)は、生きる私の羅針盤」そんな言葉を聞いたことがあります。仏法は人生の羅針盤であるなら、お茶やご飯よりもむしろ当たり前に側にあるべきもの、ないといけないものなのではないでしょうか。
仏教はお釈迦さまから始まりました。お釈迦さまは一国(釈迦族)の王様の子としてお生まれになりました。将来は王様になられる方ですから、宮中でそれはそれは大事に育てられたそうです。側には気に入った人が常にいて、欲しいものは何でも手に入るし、自分の望みは全て叶えられる。おまけに将来まで約束されているのです。しかしお釈迦さまは29歳の時にそれら全て、家も家族も財産も地位も名誉も捨てて体一つで悟りを求めて求道の旅に出て行ってしまいました。これを出家と言います。怠け者気質の私がお釈迦さまの立場だったなら「やったー!一生ゴロゴロできるー!」とむしろつかんで離さないであろうそれら全てをあっけなく捨てて出家してしまったのです。なぜでしょうか。
宮本輝さんという小説家がゴルフの達人にゴルフを習った時のことを『ひとたびはポプラに臥す』という本の中でこう書いています。
静かな心でうしろを振り返ってみなさい。
私にゴルフを教えてくれた人の言葉が、ある重みをともなって甦った。一球、ボールを打つたびに、ボールが飛んだ地点まで行って、
うしろを見てみなさい。そうすれば、どんなに簡単な道のりであったのかに驚きますよ。
その人はそう言いたかったのだ。ここまで来るのを難しくしていたのは、ほかならぬ自分なのだ、と。
宮本さんはただ単にゴルフの話をしているわけではないように思います。人生においても同じことが言えるのではないでしょうか。
まさにお釈迦さまは人生を生きづらくしている原因が自分自身にあったと29歳の時に確信されたのでした。仏説無量寿経というお経の中でお釈迦さまは「有田憂田 有宅憂宅 無田亦憂 欲有田 無宅亦憂 欲有宅」とおっしゃっています。「田んぼがあったら田んぼが悩みになるし、家があったら家のことが悩みになる。じゃあ田んぼや家がそもそも無かったら悩みが無いかというとそんなことはない。田んぼが無いことに悩み、家が無いことに悩むのが私たちなのだ」と。どこまでも悩みは尽きないし、欲望というのは際限が無く決して満たされることはないということでしょう。
お金がもっとあったら…健康でいられたら…あの人よりこうだったら…そしたら幸せになれるハズ
そんな風に私たちは生きてはいないでしょうか。今、側にいてくれる人や物に感謝することを忘れて、あれが無いこれが無い、あの人はこうなのになんで自分はこうなんだろう…と満たされない日々を過ごしてはいないでしょうか。
お釈迦さまは、人生が苦しいのは「足りない」ことが原因なのではなくて、「足りないと思う心」が原因なのだと見抜かれたお方でした。そのお釈迦さまが求道の末に36歳の時に悟りを開かれたのでした。悟りを開くということは、苦しみの原因であった自分自身が解決したということです。
じゃあ私たちも出家しなきゃいけないのかというと、そうではありません。浄土真宗は在家(世俗の暮らしをしながらの)仏教です。人の世を生きていくためにはお金を稼がないといけないし、時には努力することも必要になってきます。しかし注意すべきは、目的を達成したところに自分が思い描いた幸せはない、ということです。反対に言えば目的を達成出来なかったとしてもそれほど悲嘆にくれることではないのかもしれません。
与えられた仕事・役割・責任に精一杯尽くす人、仕事がうまくいった人、うまくいかない人、子育てに悩む人、人間関係に疲れた人、目的に向かって頑張る人、目的を見失ってしまった人、必死に孤独に耐えている人、病気と闘っている人、病気と闘っている人を支えている人…
みんな「今」という瞬間を精一杯生きる人たちです。今を精一杯生きる人たち一人一人に分け隔て無く本当の幸せが訪れなければなりません。
お釈迦さまが世俗の中で今を精一杯生きる私たちのために説いてくださったのが浄土三部経です。
そこには老いも若いも関係ないですよね。子どもも大人もお年寄りも、みんなそれぞれ苦悩を抱えて生きているはずです。その私たち一人一人の人生のよりどころになるのが仏法ですから、ご門徒の皆さまにどうかお茶やご飯と並んでお寺(仏法)が身近にある生活を送っていただきたい、そういう願いを込めて日常茶飯寺と名付けさせていただきました。どうかこの日常茶飯寺を通して仏法が皆さまの人生のよりどころになりますように。
合 掌
(2019年2月15日発行)