『うさぎとかめと私』 読む法話 日常茶飯寺 vol.41
お釈迦さまは悟りへ至るための必要な八つの修行方法を示されました。これを八正道といいますが、その八つというのが①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為) ⑤正命 (正しい生活)⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想) です。
今号はその中でも①の正見ということについて味わってみたいと思います。
正見とは、正しい見解とありますが、正しく物事を見なさい、偏った見方をしてはいけませんよ、ということです。
私たちは物事を正しく見ることが出来ているでしょうか。
有名な絵で、ルビンの壺というものがあります。(下図参照)
これはパッと見ると黒い壺が描かれているように見えますが、白い部分に注目してみると、顔が向かい合っているようにも見えます。私にはその2つが見えますが、でも見る人によっては全く別のものに見えてもおかしくありません。一つの絵を見てもいろんな見方ができるように、世の中のあらゆる物事というのもいろんな見方ができるのは当然のことで、偏った見方に陥ってはいけないよ、とお釈迦さまは正見という教えを示してくださったのです。
有名な童話で、『うさぎとかめ』というお話があります。
ある時うさぎが「かめさんは世界で一番足が遅いね」とかめをからかいます。
それを聞いたかめは
「それならあの山の頂上まで競争をしよう」と勝負を持ちかけます。
ヨーイドン!と競争が始まると、うさぎは全速力で駆けていきました。かめはうさぎに比べるとゆっくりですが自分のペースで精一杯走ります。
随分と進んだうさぎが後ろを振り返ってみると、かめはまだスタート地点の近くにいました。
「この調子じゃかめさんがここまで来るのに随分と時間がかかりそうだな」そう思ったうさぎは木陰で一休みすることにしました。
目を覚ましたうさぎが見たものは、ゴールにいるかめの姿だったのです。
昔から日本人に親しまれてきたこのうさぎとかめの話を、皆さんはどのように受け止めてこられたでしょうか。私は、ゆっくりでも不器用でも、怠けずにコツコツと努力を続けていくことが大切なことなんだぞ、うさぎのように「自分は大丈夫」と過信するところに落とし穴があるんだぞ、と勤勉であることの大切さを教えられてきました。
けれども、このうさぎとかめの話をインドの方に聞いてもらったら、なんとインドの方はかめに対して激怒したというのです。
えぇ〜!なんでかめに怒るの!?と思いましたが、なんとインドの方はこう言ったそうです。
「友達だったら普通起こすでしょう!そもそも本当に寝ているかどうかなんて起こしてみないと分からないし、もしかしたら具合が悪くなったのかもしれないじゃないか。自分が勝つことだけを考えて黙ってうさぎを横目に通り過ぎて行くなんて、かめはなんてセコいやつなんだ!」と。
このインドの方の感想に私は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。
なぜなら、私の中で何十年もの間、真面目で勤勉で、見習うべき存在だったかめの印象が一瞬にしてガラッと変えられてしまったからです。
それ以降私の中でかめはちょっとセコいやつに見えてしまっています。
言われてみたら本当にその通りだなと思ったのですが、“友達を気遣う”というあまりに当たり前のことになんで今まで気付けなかったんだろうと自分自身にも落胆したことでした。
確かに、コツコツ真面目に頑張ることは大切なことです。けれど、友達を大事にすることも大切なことで、とてもこの二つに優劣など付けることはできません。
私が今まで抱いてきた「真面目で勤勉なかめ」という見方はおそらく、多くの人に共通した見方だと思います。けれども、「友達を差し置いて自分の勝ちを追い求める自己中心的なかめ」というのも一つの見方です。
もしかしたら、そのどちらでもない別の見方をする人がいてもおかしくはありません。そして、どの見方が正しいわけでも、間違っているわけでもありません。
「どれか一つの見方が正しい!」と言ってしまえば、それは正見とは言えず、偏った見方だと言わざるを得ません。
そう考えてみると、「正見」という言葉自体は単純だけど、あまりに深い教えであることが分かります。
正しく物事を見るなんて、そんなの無理じゃないか!とさえ思えてきます。
けれど私たちにとって大切なことは、“偏った見方しかできない自分自身と出遇うこと“ではないかと思うのです。
偏った見方しかできない故に、時に私たちは深く傷つき、また誰かを傷つけてしまうこともあります。世間には噂話がいっぱいです。あることないこと、次から次に噂話というのは生まれては消え、生まれては消えていきます。噂話をする側にとっては一時の話題であっても、される側は一生の傷となって残ります。
その噂話というのも、きっとほとんどがあまりに極端に偏った見方です。そんな極端に偏った見方をも、本当だと鵜呑みにしてしまう危うさを抱えているのが私たちでしょう。
そんな、偏った見方しかできない悲しみを背負っている私のことを知り通して、涙を注いでくださっているのが阿弥陀さまです。
阿弥陀さまは言います。「そのまま救う」と。
それは決して、偏った見方しかできない私のままでいいんだ、ということではないと思います。「正見」という教えがある以上、正しく物事を見なければいけないのです。でも、何をどう頑張ったって「私」という偏った主観を通してじゃないと物事を見られないのが私です。どんなに頑張っても、私は「私」という殻を破ることができないのです。
その私のありのままを知り通したからこそ、阿弥陀さまは「そのまま」とおっしゃってくださるのです。殻を破れと言うんじゃない、殻ごと救うとおっしゃってくださる、その声が南無阿弥陀仏です。
その阿弥陀さまのお心との出遇いの中ではじめて、偏った見方しかできない自分自身と真正面から向き合っていけるのだと思うのです。
合 掌
(2023年5月8日 発行)