『阿難と如是我聞』 読む法話 日常茶飯寺 vol.38
今号は来月3月7日(火)8日(水)にお勤めする永代経法要のご案内です。年間行事予定のところに詳細を記載しておりますのでご確認ください。
永代経というのは、「永代にわたってこの経が相続されるように」という西福寺が始まって以来、西福寺を支えてきた私たちのご先祖さま方の願いの上に勤められる法要です。この経というのは、浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)のことです。
西福寺の永代経では二日間にわたってこの浄土三部経を拝読します。
この三巻からなる浄土三部経はどれも「如是我聞(にょぜがもん)」もしくは「我聞如是(がもんにょぜ)」という言葉から始まります。(永代経や法事の時に拝読するお経本では阿弥陀経以外は省略されています)
これは「かくのごとく、我聞けり」つまり、「私はこのように聞きました」という意味です。この「我(私)」というのはお釈迦さまの弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ 以下:阿難)という人のことを指します。
この阿難が「如是我聞」という一言を発した背景にドラマがあるのです。
この阿難という人は、お釈迦さまのいとこにあたり、お釈迦さまより30歳ほど年下であったそうです。お釈迦さまが80歳で亡くなられるまでの25年もの間、阿難は常にお釈迦さまの側にいて、お釈迦さまの身の回りのお世話をされました。阿難は「多聞第一(たもんだいいち)」と言われ、誰よりもお釈迦さまのお説法を聞いていました。
お釈迦さまがおられた頃はまだ言葉を文字に残すという文化があまりありませんでした。ですからお釈迦さまが語った言葉の数々を弟子達は全て記憶していたのです。
ところが、お釈迦さまが亡くなられたことをきっかけに「このままではお釈迦さまがせっかく語ってくださった真理の言葉の数々が途絶えてしまう」と弟子達が集まって、お釈迦さまの言葉を文字にして後世に残そうという編纂会議が開かれました。
この編纂会議を開催するにあたって、一つ大きな大きな問題があったのです。
それは、阿難を会議に加えるかどうか、という問題でした。
誰よりもお釈迦さまの説法を聞いていた阿難は言わずもがな、お経の編纂会議において最重要人物です。しかし、それでも阿難を編纂会議に加えるわけにいかない、という強い抗議があったのです。
その理由は、阿難が悟りを開いていなかったことにありました。
お釈迦さまの教団を代表する弟子達はみんな悟りを開いていました。ところが阿難はお釈迦さまの一番近くで説法を聞いていたにも関わらず、とうとうお釈迦さまが生きている間に悟りを開くことができなかったのです。
お釈迦さまの悟りの言葉を文字に記録するという行為は、千年後、一万年後どころではなく、人類が続く限り永遠にお釈迦さまの言葉を残さねばならないという大事業です。けれども「文字にする」ということは同時に、誤解を生むという危険性を孕んでいます。
伝言ゲームというのをやってみると、単純な言葉であっても何人かを介するうちに全く違う言葉に変化してしまいます。お経の編纂会議において一番恐るべきことは、そういう誤解が生じていくことです。時代が変わってもお釈迦さまの言葉が永遠に生き続けられるように純粋な悟りの言葉だけを残さなくてはならないのです。
そういう非常にデリケートで責任重大なお経の編纂会議に、やはり悟りを開いていない、もっと言えばお釈迦さまの言葉の真意を理解していない阿難を加えるわけにはいかないという猛反対があったのです。
その状況を見るに見かねた阿難の兄弟子であり、編纂会議のリーダーであった摩訶迦葉(まかかしょう)が阿難に対して一晩中説法をします。そして阿難はついに悟りを開いたのです。お経の編纂会議が行われる日の明け方のことでした。阿難はギリギリでお経の編纂会議に間に合ったのです。
ここでちょっと考えてみてください。
例えば、お寺で法話を聞いて感動したとします。その感動を誰かに伝える時、「私はこう聞いた」と言うでしょうか。それよりも「ご講師さんがこういう話をした」と言いませんか。
「私はこう聞いた」と、主語を「私」にすると、その話の責任は「私」が負うことになります。その話について質問をされた時、答えるのは「私」になります。
反対に、「ご講師さんがこういう話をした」と、主語を「ご講師さん」にすると、その話の責任をご講師さんに負わせることになります。もしそこでその話について質問があったとしても、言ったのはご講師さんだからご講師さんに聞いてくれ、ということになります。
関西風に言えば「(私は)知らんけど」というやつです。
まさに悟りを開く前の阿難は、「お釈迦さまがこう言っていた」ということであればいくらでも話すことが出来ましたが、お釈迦さま亡き後、その言葉の責任をお釈迦さまに負わせることはできません。お釈迦さまの言葉を後世に残すために、弟子達一人ひとりがその責任を負わねばならなかったのです。
そのような状況にありながら、悟りを開いていない阿難にはどうしても「私はこう聞いた」と言うことができなかったのです。
けれども、ギリギリのところで悟りを開いた阿難はその編纂会議に出席を果たしたのです。
その編纂会議の場で摩訶迦葉が阿難に尋ねます。
「阿難よ、あなたはどう聞きましたか」
そして阿難は
「私はこのように聞きました」と答え、お釈迦さまが残してくださった真理の言葉の数々を語っていったのです。
これが後に「如是我聞」と漢訳されたのでした。
つまり、阿難がついに責任を持って自分の口で悟りの言葉を語れるようになったのです。
その阿難の活躍によって、浄土三部経もまた2500年もの時を超えて今、私たちの元に伝えられています。そして「2500年」という言葉で片づけてしまってはならないほどに、顔も名前も知らない数限りない先人の方々の並々ならぬ思いの上に今、私たちが「南無阿弥陀仏」に遇わせていただく、それが永代経法要であろうと思います。
どうぞ皆さま、この度の永代経法要にも西福寺にお参りくださり、ご一緒にお念仏のご縁をいただきましょう。
合 掌
(2023年2月10日 発行)