『闇を闇とも知らずに』 読む法話 日常茶飯寺 vol.36
2022年ももう残りわずかとなりました。今年一年を思い返してみると、新しい出会いもありましたが、寂しい別れもありました。ご門徒のお通夜、お葬式にお参りさせていただく度に、故人といろいろなお話をさせていただいたあの日々、あの時間がいかにかけがえのない時間であったかを痛感させられます。
お通夜、お葬式は故人の人生の締めくくりです。
私はお通夜、お葬式をお勤めさせていただく時、お浄土へ参られた故人への敬意とご恩を思いながら、お経の一文字一文字、一音一音、所作の一つ一つを丁寧にお勤めすることを心がけています。
けれど、どんなに立派なお勤めが出来得たとしても、大切な方を亡くしたご遺族の悲しみが癒えるわけではありません。むしろ故人への思いが深ければ深いほど、悲しみもまた深いものであろうと思います。ですからお通夜、お葬式は、きちんと悲しめる場であってほしいと考えています。何かとバタバタする中で、お通夜、お葬式の儀式の間はしっかりと故人と向き合えるように、「何じゃこの坊さんは」「何じゃこの読経は」というような、故人以外に意識が向いてしまわないように気をつけています。
えらく格好のいいことを言うておりますが、実際のところはどうなのか分かりません。お通夜、お葬式の一連のお勤めが終わった後は決まっていつも「自分にどれだけのことが出来たのだろうか」と肩を落とすのです。
そして、お坊さんとして私に出来ることは何だろうか、と模索する日々です。
はるか2500年前、インドにお生まれになったお釈迦さまも老病死の現実に苦しまれ、老病死を超える道を求めて出家・求道なされて、35歳の時に悟りを開かれました。この時お釈迦さまは一切の苦しみから解き放たれたのです。そのお釈迦さまにとって老いも病も死も、もはや苦しみではありませんでした。
悟りを開かれた直後、お釈迦さまは悩まれたそうです。「この悟りの内容を人々に説いても、誰も理解できないだろう…」と。ところがそこに梵天という天の神様が現れて、「お釈迦さま、どうかその悟りの内容を世の人々のために説いてください」とお願いされた、というのです。そしてそこからお釈迦さまは80歳で亡くなられるまでの45年もの間、悟りの内容を人々に説き続けたのでした。
最初は躊躇されていたお釈迦さまを説法に向かわせたものは何だったのでしょうか。
それは他でもない、老病死に苦しむ人々でありました。その人々の姿を見た時に胸を引き裂くような痛みを抱かれたことがお釈迦さまの説法の出発点でした。そのお釈迦さまが残してくださったお経の言葉の数々は、その時代にインドに生きておられた人々だけに向けられたものではなく、これから生まれてくるであろう数限りない命の一つ一つに対してのお釈迦さまからの慈愛に満ちた最上の優しさでありました。
そして、その優しさに触れたことで人生を底からひっくり返されてしまった人たちによって2500年もの間途絶えることなくこの仏教が伝えられてきたのです。
日本で初めて政治に仏教を取り入れた聖徳太子もその一人でした。聖徳太子の有名な言葉に
「世間虚仮 唯仏是真」
(この世の中にある物事は全て仮のものであり、仏の教えのみが真実である)というものがあります。
そしてその聖徳太子を「和国の教主(日本のお釈迦さま)」として仰がれた親鸞聖人も似たようなことをおっしゃっています。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもって、そらごとたはごと、まことあることなしに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
(私はさまざまな煩悩をそなえている凡夫であり、この世界はまるで火のついた家のように危険にみち、変化してやまない無常の世界です。こうした無常の世界において為す私のいとなみは、あらゆることが、みなことごとく虚しい虚構であり、いつわりごとであって、まことのことは何一つありません。そんな中にあって、ただ念仏だけが真実でありました)
聖徳太子も親鸞聖人も、この世はみんな虚構であって真実はどこにもないということを共通しておっしゃられます。
煩悩をそなえた私たちというのは、何が真実で何が真実でないかを見極められる器ではありません。「これが真実だ!」なんて言われたら「なんか胡散臭いなぁ」なんて思ってしまうのは私だけでしょうか。たとえそれが真実であったとしても、私には本当かどうか分からないのです。となると、この世が虚構であるということも私たちには分からないはずです。
聖徳太子も親鸞聖人もそういう身でありながら、この世が虚構であったと言い切れるのは、真実に触れたからに他なりません。
ずっと前のことですが、私は夜中に目が覚めて、喉が渇いたのでお茶を飲もうとキッチンに行きました。真夜中ですので部屋は真っ暗です。でも毎日生活している部屋ですから、部屋の形や家具の配置、電気のスイッチの場所などは知っているのです。真っ暗な中をスイッチのある方へ一歩踏み出すと、
「グニっ」と足の裏に何か柔らかい感触を感じたのです。
「ヒャっ!」と何とも情けない声をあげながら飛び上がって、「ななな、何を踏んだんだろうか…」と恐る恐る電気をつけてみると、床にあったのは子どもが遊んでいた柔らかいゴムで出来たおもちゃだったのです。
「な〜んや、おもちゃかいな!」と誰もいない部屋で一人、何かにツッコミを入れたことがありました。
真っ暗闇で正体が見えないというのは、これは何とも気持ち悪いし不安なものですよ。それが電気がついて正体がハッキリ見えた途端に安心できるんです。
煩悩をそなえた私が生きる世界というのは、真っ暗闇の中を生きているようなものなのかもしれません。闇を闇とも知らない私たちが光に出遇った時にはじめて闇の中にいた、ということを知るのです。
聖徳太子も親鸞聖人も、真実に触れたことによって不安だらけのこの世界が虚構でしかなかったと、その正体が見えた時、「あぁ、そうであったか」と深い安心を抱かれ、頷かれたに違いありません。
老病死の現実に対しても、頷いていくことの出来る道をお釈迦さまは私たちに示してくださったのです。
私がお坊さんとして出来ること、しなければならないことは、阿弥陀さま、お釈迦さま、聖徳太子、親鸞聖人、数限りない方々から伝えられてきたその優しさを私自身が頂き、そしてそれをご門徒の皆さまにお伝えしていくことだと思っています。そういう思いに駆られて、今年もがむしゃらに日常茶飯寺を毎月発行してきました。拙い寺報ですがお読みくださる皆様に支えられての一年であったと心底頭の下がる思いでいっぱいです。有り難うございました。
また来年も、がむしゃらに発行していきたいと思っておりますのでどうぞよろしくお願い申しあげます。
年の瀬も年初めも、どうぞお念仏と共にお過ごしください。
合 掌
(2022年12月9日 発行)