『私が私を見捨てても』 読む法話 日常茶飯寺 vol.31
昨年の暮れに西福寺の正面(南側)に大きな掲示板が出来ました。お寺の掲示板と言えば、何かええこと書いて貼ってあるよな!と思って、私の心に響いた言葉を書いて毎月ひっそりと張り出しています。下手な字をさらすのは恥ずかしいのですけれども、書かないと字も上手くならんぞ!と自分に言い聞かせて毎月書いています。
そこに先月はこんな言葉を書きました。
「物は、いつ、どのタイミングでゴミになるんだろうか?
物が変わるわけではない。変わるのはいつも私たちの方だ。」
という言葉です。
これは、ゴミを再利用するというイベントのチラシに書いてあった言葉です。
当たり前のことと言えばそうなのですが、物をゴミにして捨てる時、まさか自分が変わっているなんてことに意識を向けたことがありませんでした。
確かに、物を買う時って「これが欲しいな〜!」と思ったり「これがあったら便利だな〜!」と思って、財布と相談して購入します。けれども、買った物がその役目を終えたり、代わりの物を手に入れたり、時間と共に自分の好みじゃなくなったりして、「もういらない」と、ゴミになっていくんですよね。
この言葉の通り、物が変わるわけではなく、物は私のものさしによって必要ないと判断され、ゴミになるのです。
考えてみれば私は日々、自分にとって役に立つと判断したものを身の回りに置き、役に立たないと判断したものをゴミにして捨てています。そんなことはあまりに当たり前に、ほぼ無意識的に自分のものさしで身の回りの物を測り、役に立つか、立たないかという選択を毎日何十回、何百回と、繰り返して過ごしています。
これはゴミに限った話ではありません。
我が家では数匹のクワガタ虫を飼っています。子どもたちが昆虫に夢中になっていることを知って、珍しい種類のクワガタを分けてくださった方がいらっしゃったのです。
私も一緒になってクワガタの世話をしているのですが、エサは昆虫用のゼリーを虫カゴに入れておくのです。
先日、そろそろ昆虫ゼリーの替え時かな〜と思って虫カゴを見ると、なんと昆虫ゼリーを食べにゴキブリが来ているではありませんか!
私に気がついたゴキブリは素早く逃げていきました。「あっ!この野郎!」と殺虫剤を手に追いかけ回している時に、なんとなく私の脳内にゴキブリの叫びが聞こえた気がするのです。
「なんでアイツ(クワガタ)はよくて、俺はアカンのや!」って。
知らず知らず、私のものさしは命にまで善し悪しをつけているのです。
そして、そのものさしは時に自分自身に向けられることもあります。
自分ははたしてこのままでいいのだろうか、自分自身に一体何の価値があるのか、自分の命に一体何の価値があるのか、と不安に押しつぶされそうになった経験をお持ちの方は、もしかしたら一人や二人どころではないのではないでしょうか。
もしかしたら私たち一人ひとり、ずっとそういう不安と隣り合わせで生きてきたのかもしれません。
私たちは自分のものさしによって、自分自身にも善し悪しをつけようとするのです。
けれども阿弥陀さまは私に善し悪しをつけません。むしろ阿弥陀さまにはものさしがありません。
阿弥陀さまは仏になる前、
「たとえあなたがどのような姿であっても、たとえあなたがどのような心であっても、たとえあなたがどのような生き方をしていようとも、どんなことがあっても決してあなたのことを見捨てません。もしあなた一人を救えないようなら、私(阿弥陀)は仏にはならない」という願いを起こされました。
その阿弥陀さまが、今現に阿弥陀仏という仏さまになっておられるということは、どんな私であってももう見捨てられることはないということです。
その大いなる願いがはたらきとなって今私に届けられているのが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
「私が私でよかった」という命の底からの頷きは、私のものさしが指し示す先にあるのではなく、その頷きは阿弥陀さまから与えられるものであった、というのが親鸞聖人の結論でした。
これは以前インターネットでたまたま読んだ、ある女性の話です。
彼女は、口うるさいお母さんから離れたくて、高校卒業後、就職を機に家を出ました。
最初の半年間くらいは一人暮らしを満喫していました。
けれども、徐々に仕事量も責任も増えていって、残業してクタクタになって帰宅する毎日。少しずつ毎日の炊事・洗濯・掃除もおろそかになっていきました。
山積みになった食器や洗濯物を見て、「あぁ、なんで自分はこうなんだろう」と落ち込んだ時に初めて、お母さんはこんなに大変なことを何十年も、何も言わずしてくれていたんだ、とお母さんの有り難みを知ったそうです。
そんな彼女は、どんなに忙しくてもお正月にだけは実家に帰るようにしていました。
実家に帰るとお母さんは相変わらず口うるさかったけど、それもなんだか嬉しく思ったそうです。
ところが彼女が25歳になったお正月、仕事でトラブルがあったりで、どうしても都合がつけられず実家への帰省を諦めました。そのことをお母さんに電話で伝えると、お母さんは電話の向こうで
「そう、、、25歳のあなたには一度も会えないのね」
と震える声で寂しそうに言ったのです。
仕事もトラブル続きで、「私は誰からも必要とされていないんじゃないか」と精神的に滅入っていた彼女は、お母さんのその一言を聞いて泣いたそうです。
そして彼女はお母さんに「お母さん、私を産んでくれて、ありがとう。私を育ててくれて、ありがとう」と伝えたそうです。
とことんまで自分を否定し続け、どこにも自分の居場所を見つけられなかった彼女が、お母さんの一言によって、どんなことがあっても決して揺らぐことのない居場所を発見したのです。
時に私たちは自分のものさしを自分自身に向けて、こんな自分はダメだ!と、自分で自分を見捨てようとすることがあります。でも、その私を決して見捨てないはたらきに出遇った時に、これまで正しいと思い込んでいた自分のものさしが、実は全くあてにならないものであったと知らされるのです。
私が私を見捨てても、阿弥陀さまは決して私を見捨てない。私の命の尊さを知っている阿弥陀さまは「あなたを救う、あなたを救う」とずっと喚び続けてくださっていた、その喚び声が「南無阿弥陀仏」の一声のお念仏なのです。そのお念仏をいただく中で、私の命は、阿弥陀さまに願われていた他と比べようのない尊い命であったのだと知らされます。
そしてそれは同時に、命の価値さえも測ろうとする私のものさしそのものが間違っていたのだと知らされることでもあるのです。
合 掌
(2022年7月10日 発行)