『言葉になる』 読む法話 日常茶飯寺 vol.30
おかげさまで、この日常茶飯寺も30号となりました。いつも読んでくださり有り難うございます。
「帰命無量寿如来〜」からはじまる正信偈を拝読していると、「弥陀(みだ)成仏(じょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)をへたまへり」
と出てきます。これは「阿弥陀さまが悟りを開いて仏さまになられたのは、今から十劫も前のことでした」という意味です。
いやいや、十劫ってなんですの!って話ですが、十劫とは時間の長さを表す言葉です。十劫とは一劫の10倍ということですが、では一劫という時間はどれくらいの長さなのかをお経にはとんでもない例えで説明されています。
40里四方(縦・横・高さが160キロメートル)の巨大な岩があって、100年に一度だけ空から天女が舞い降りてきて、身につけているひらひらの羽衣の袂でサーッと一度だけその岩を撫でて天に帰っていくのです。そしてまた100年後、天女が舞い降りてきて袂でサーッと岩を撫でていく、それを繰り返しているうちに袂の摩擦によって岩が少しずつ磨耗していって、いつかその巨大な岩が一つなくなるまでの時間が一劫である、と言われるのです。
十劫はその10倍ですから、もはや計り知ることのできない遠い遠い昔に阿弥陀仏という仏さまが誕生したというのです。
阿弥陀さまは仏になる前に「私は生きとし生けるものを一人も漏らすことなく救う仏になります。もしそれができないのなら、私は仏にはなりません」という願いを起こされたと説かれます。永遠に生きとし生けるものを救い続ける手段として考え出されたのが“南無阿弥陀仏という言葉になる”ということだったのです。
阿弥陀さま自らが“南無阿弥陀仏”という言葉になって、「必ず救うから、大丈夫。安心しなさい」と、その声があなたに届くまでずっと喚(よ)び続けよう、と十劫の昔に“南無阿弥陀仏”という言葉の仏さまになられたというのです。
その喚び声を十劫というとてつもない時を経て、やっと今私はその喚び声を聞いたんです、というのが「いまに十劫をへたまへり」です。
仏教では、命はずっと続いているものだと考えます。今私たちはたまたま人間として生を受けていますが、この命はずっと生まれ変わり死に変わりを繰り返してきて、いつ始まったか分からないくらい遠い昔から私は迷い続けてきた。その間、阿弥陀さまはずーーーーっと私のことを喚び続けていた、というのです。
なので親鸞聖人は「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」の一言に二つの意味を込めておられると思います。
一つは、“私は十劫もの間、阿弥陀さまに背を向けてきた”ということ。そしてもう一つは、“阿弥陀さまは十劫もの間、私を喚び続けてくださった”ということです。
今私がただ一声、南無阿弥陀仏と称え、聞くということは同時に、私の命はずっとずっと願われていたのだと知らされることなのです。
以前、浄土真宗門徒のヨシエさん(仮名・70代女性)という方(西福寺のご門徒ではありません)とお話をする機会がありました。ヨシエさんはご自身の生い立ちの話を聞かせてくださいました。
ヨシエさんは小学校2年生の時、両親が離婚をし、二人兄妹であったヨシエさんと兄さんは父親の元に引き取られました。まだまだ甘えたい盛りのヨシエさんにとって、それはとても辛く悲しい出来事だったそうです。
それから2年後、ヨシエさんが4年生の時に新しいお母さんが家にやってきました。新しいお母さんはいつも「ヨシエちゃん、ヨシエちゃん」と気にかけてくれたけれど、ヨシエさんは生き別れたお母さんへの思いが強く、新しいお母さんをどうしても「お母さん」と呼ぶことができず、他人行儀に名前で呼んでいました。
同じ苦しみを味わった唯一の理解者である兄の存在だけがヨシエさんの心の支えでした。
ところがある日、その兄さんが学校から帰ってくるなり、あまりに自然に「お母さん、ただいま」と言っていたのをヨシエさんは聞いてしまったのです。お母さんも「○○ちゃん、おかえり」と明るい声で言っていて、それはどこからどう見ても“家族”でした。
「あぁ、この家で私は一人ぼっちなんだ」と思ったヨシエさんはその日以来、家の中に自分の居場所を見つけられず、孤独な青春時代を過ごしたそうです。
高校を卒業して就職をし、やがて結婚し、子どもを授かりました。仕事や子育てを理由に、実家から遠のいていきました。
「母さんが危篤やから、最期に立ち会ってやってくれんか」
兄さんから連絡があり、ヨシエさんは病院に向かいました。久しぶりに会ったお母さんは真っ白な髪のおばあさんになっていました。お母さんが家にやってきてから50年以上もの年月が経っていました。
お母さんは意識が朦朧とする中で、ボソボソと何かうわごとを言っていました。何を言っているんだろう、とお母さんの口元に耳を近づけてみると、
なんと、「ヨシエちゃん、ヨシエちゃん」と、自分の名を呼んでいたのです。
「お母さん、私、ここにおるよ!」とヨシエさんはお母さんの手をぎゅっと握りました。
それから間も無く、お母さんは亡くなりました。
晩年、お母さんは認知症を患い、色々なことを忘れていったけれど、「ヨシエちゃん」という名前だけは忘れなかったと兄さんから聞きました。
お通夜、お葬式が終わり、火葬の後、お母さんのお骨が入った小さな骨壷を抱いた時、ポロポロと涙が溢れてきて
「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん…」と、まるで少女のように声をあげて泣いたそうです。
ヨシエさんはその話の最後にこうおっしゃいました。
「私は母に背を向け続けた親不孝娘でした。でも母はそんな私の背中に向かって50年以上も、「ヨシエちゃん、ヨシエちゃん」と呼び続けてくれていたんです。もっと早く、「お母さん」と呼んであげたかったけれど…、でも最後に「お母さん」と呼べて…嬉しかった。母はずっと前から、私の母親だったんです。」と、そう話すヨシエさんの目から涙がこぼれました。
「お母さん」と呼ぶその一声に50年以上もの孤独が癒やされていく、言葉とは時にそんな力を持つものなのだと聞かせていただきました。
私たちは言葉の世界に生きています。何も言葉を発さなくても、頭の中は言葉でいっぱいです。その私たちを永遠に救い続けるために阿弥陀さまは「言葉になる」という選択をされたのです。
「南無阿弥陀仏」と、私が称えるそのたった一声は、私が阿弥陀さまを呼ぶ声でありながら、それは同時に十劫もの間喚び続けてくださった阿弥陀さまの声でもあるのです。
永遠と言っても過言ではない遠い遠い昔から私たち一人ひとりが背負ってきた生命の孤独が、「南無阿弥陀仏」というたった一声によって溶かされ、癒やされていくのです。
この混沌とした時代の中に生きる私たちは「命の価値」さえも見失いつつあるような気がしてなりません。「南無阿弥陀仏」といただく中に、この私の命もまた十劫もの間阿弥陀さまに願われてきた命であったと知らされます。そして、他者と比べようのない無上の価値ある命を私は今、生かされているのだと知らされるのです。
合 掌
(2022年6月7日 発行)