『阿弥陀仏って何?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.27

 今号は前号の続きで、正信偈の冒頭の二句『帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)』の無量寿如来(むりょうじゅにょらい)と不可思議光(ふかしぎこう)について書きたいと思います。

 無量寿如来と不可思議光はどちらも阿弥陀仏の異名です。阿弥陀仏というとあのパンチパーマで薄目開けて背後から光を放ちまくってる仏さまでしょ?と思いたいところですが、なんと、あのお姿は仮のお姿で、実際あの姿をした阿弥陀さまがどこかにおられる、というわけではありません。阿弥陀仏って何なのかということについて触れていきたいと思います。

 まずはじめに、「仏(ぶつ)」とか「如来(にょらい)」って、浄土真宗に限らず仏教全般において当たり前に使われる言葉ですが、どういう意味があるのでしょうか。

「仏(または仏陀)」とは「目覚めた人」という意味です。これはあらゆる苦しみから解放されたという意味での目覚めです。意味は異なりますが、私たちは誰もが毎日眠りから覚めるという意味での「目覚め」を経験しています。ちょっと考えてみてください。眠りから目覚めた時に、誰もが共通して一番最初に気付くことがあります。さて、一体それは何でしょう?

答えは、「寝てた」ということに気付くのです。当たり前のことすぎてそんなこと考えたこともありませんが、でもそうでしょう。夜寝る時、何時何分に眠りに落ちましたという意識などありませんよね。自分でも気が付かないまま、いつの間にやら眠りに落ちているのです。では寝ている間はどうでしょう。「まだ朝にならないで欲しいなぁ」なんて意識がありますか。ないですよね。寝ている間もまだ自分が寝ていることに気がついてないのです。私たちは眠りから目覚めた時に初めて、寝ていた、ということに気付き、時計を見て何時間寝たのかを知るのです。

ですから仏さまというのは、真実に目覚めると同時にこれまで迷いの中にいた、ということを知った方です。反対に私たちは寝ていることに自分で気付いてないように、迷いの中に生きながら迷っているという自覚さえないのでしょう。真実を知った者でなければ、迷いの中にいることに気付くことは出来ないのです。

 次に、「如来」とは字のまま、「如から来た」ということです。如とは真如(しんにょ)のことで、これは悟りとか真実の世界を表す言葉です。親鸞聖人は、「悟りの世界というのは色も無く、形も無い。心で想像することも言葉で言い表すことも不可能である」とおっしゃいます。私たちには認識することが出来ない世界であるというのです。

お釈迦さまも悟りを開いた時に、「悟りを言葉で表現することなど到底出来ない」と説法するのを躊躇されたそうです。

難解だから理解できないということではなくて、近すぎて認識できないのかもしれません。以前読んだ本で、「魚に水は見えてない」という一文がありました。魚は生まれた時から水の中にいるのですから、水が見えてないのです。

悟りの世界、真実の世界というのも、どこか遠い世界に存在するものではなくて、いつでもそこにあるものだけど、生まれて物心ついた頃から煩悩(欲)に振り回されて自分中心の世界を生きている私たちには認識することが出来ないのでしょう。私が生きている世界と真如(悟り)の世界は平行して存在しながら接点が一つもないのです。その迷いの中にいる私たちを真実へと目覚ますために、色も無く形も無い真如の世界から私たちの世界へ形を表された、それが「阿弥陀(あみだ)」という名前、言葉だったのです。言葉という形を持って真如より来生した、ということで如来というのです。

 さて、ここからいよいよ「阿弥陀」という名前についてです。アミダという言葉の語源はインドの、アミターユス、アミターバだそうです。頭の「ア」は否定を表す言葉、次の「ミター」は量るという言葉です。ですから「アミター」で「量ることが出来ない」という意味で、これが「無量」と訳されます。そして「ユス」は寿、「バ」は光を意味します。つまり、アミターユスが無量寿、アミターバが無量光という意味になるのです。

無量寿とは、量ることが出来ない寿(いのち)ということで、これは時間的無限性を表しています。私たちは有限の時間を生きていますから、過去があり未来がある今を生きていますが、時間的無限とは始まりも無ければ終わりも無いということです。それは言い変えると、「今」という瞬間しか無いとも言えます。「今」という瞬間が永遠に続いていく、それが無量寿ということです。

次に無量光とは、量ることが出来ない光ということで、これは空間的無限性を表しています。光というのは空間を照らすはたらきを持ったものですが、普通私たちが知っている光は限定的ですよね。我が家は私と妻と3人の子どもが一つの寝室で川の字になって寝ていますが、私が「日常茶飯寺の原稿を書かないと!」と別の部屋で電気をつけたら寝室まで明るくなって家族を起こしてしまった、ということはありませんよね。電気はその部屋だけを照らすものです。私たちが生活する中で一番強い光はおそらく太陽光ではないかと思いますが、太陽光でさえ壁が一枚あれば遮られてしまいますし、そもそも夜になればその光は届かなくなります。

空間的無限とは、「ここ」とか「あそこ」とか「屋内」とか「屋外」いう区別が無いということです。いつ、どこにいようとその光に照らされているというのが無量光なのです。

 まとめると、阿弥陀とは時間と空間を超えた存在であるということです。それは「いつでも」「どこでも」ということです。過去ではなく、未来ではなく、今この瞬間の私を救おう、真実に目覚まそうというはたらきそのものを「阿弥陀」というのです。

親鸞聖人はこの無量光を「不可思議光」と称して讃えられました。不可思議とは、思議することは不可能であるということ。思いはかることも考えめぐらすことも出来ないということです。自分の認識などはるかに超えたはたらきが紛れもなく今私に届いている、その喜びを不可思議光と讃えられたのです。

光そのものは見ることはできません。でも、光に照らされたものを見ることによって光の存在を感じることは出来ます。

悟りの世界、真如の世界は、私たちには決して認識することが出来ないけれども、その真如の世界から時間と空間を超えて今ここにいるこの私を救おう、真実に目覚まそうと「阿弥陀」という言葉を持って今私の元に届けられている。今私の口に耳に胸に聞こえてくださる「南無阿弥陀仏」。それは「私にまかせなさい、あなたを必ず救います」という阿弥陀さまからの喚(よ)び声であったのです。

阿弥陀さまのはたらきがもう既に、今ここにあったのですね、と親鸞聖人はご自身の全存在をかけて「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と申されたのでした。

 阿弥陀さまとは本来認識不可能な悟りの存在でありながら私たちと接点を持つために形を持って現れてくださった、それが私が称える南無阿弥陀仏のお念仏の声であり、お仏壇の木像や絵像の阿弥陀さまなのです。

合  掌

(2022年3月1日 発行)