『悪人正機ってどんなん?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.19
親鸞聖人が悪人正機説を説いた、というのは歴史の教科書にも載るほど有名なことですが、ではいったい悪人正機説とは何なのか。今号ではそのことについて書きたいと思います。
「善人でさえ救われるのだから、悪人が救われることは間違いない」
親鸞聖人はこんな衝撃的な言葉を残されています。
常識で考えたら逆ですよね。「悪人でさえ救われるんだから、善人は絶対大丈夫よね〜!」だったら分かりますが、親鸞聖人はその反対をおっしゃるのです。
そもそも阿弥陀さまは悪人こそを救うために立ち上がった仏さまなのだから、悪人が救われることは間違いない、というのが悪人正機です。
さて、ここで問題になるのが「悪人」とは誰のことを指すのかということです。「悪人こそ救われる〜」と言うとよく、凶悪犯罪者の名前を出して「あんな重大な犯罪を犯した人でも救われるのか」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、ここで言う悪人というのは犯罪者とかそういう人を指す言葉ではありません。親鸞聖人において悪人というのは誰かを指す言葉ではなく、自分自身を指しておられるのです。そして、あなたは善人ですか、悪人ですか、という問いかけでもあると思います。
仏教では身・口・意の三業と言って、私たちは身(行為)、口(言葉)、意(心)によって悪を作っていくのだと説きます。(ちなみに真言宗では身密・口密・意密の三密と呼ぶそうです)
身(行為)によって悪を作るというのは、暴力を振るったり、殺生をしたり、盗みをしたりすることです。
口(言葉)によって悪を作るというのは、悪口を言って人を傷つけたりすることです。時には自分の思いに反して相手を傷つけてしまうこともありますよね。
これに加えて仏教は意(心)を問題にするのです。何なら、心の中で思ったことが行動に現れ、言葉に現れるのですから、意(心)に最も重点を置くのです。
誰かを傷つけたり、悪口を言ってなくても、心の中に「あんな人いなくなればいいのに」という思いがあったならそれは殺しているのと同じことだ、と説くのです。
そしてその意(心)さえも、様々な縁によってコロコロ変わってしまって全く頼りにならないということを親鸞聖人は見抜いておられました。親鸞聖人は「生涯鏡の前に座り続けた方であった」と言われるほど、自分と向き合い続けた人でした。親鸞聖人ほど人間の本性を知り抜いた方はいないと思うほどです。
その親鸞聖人が人間の存在についておっしゃった有名な言葉があります。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
私たちは縁に触れればどんなことでもしでかしてしまう危うい存在であるということを表しておられます。私は現在、犯罪に手を染めることもなく、与えられた仕事や役割を果たすことで充実した日々を過ごさせていただいています。そういう日々が長くなってくるといつしか「自分は真っ当な善人であって、少なくとも悪人じゃない」という錯覚が芽生えてきますが、そうではありません。与えられた仕事や役割があるおかげで犯罪を犯さなくて済んでいるだけのことです。ひとたびこの縁が崩れて生活もままならないほど困窮を極めた時に目の前に誰かのパンがあったとして、絶対にそのパンに手を出さないとは言い切れないのが私です。たとえ手を出さなかったとしても意(心)では取るか取らないかという葛藤が生まれているはずです。
ひとたび戦争が起こって自分が死ぬか相手が死ぬかという場面に直面した時、果たして自分がどんな行動を取るかなんて全く分からないのが私です。縁に触れればどうにでもなってしまう危うい存在がこの私だとおっしゃるのです。
その恐ろしさを痛感させられたことがありました。
数年前に京都の西本願寺でお坊さんの研修を受けていた時のことです。一緒に研修を受けていた九州出身の方、私よりもずいぶん年上の方でしたが、この方が研修生を前にお話をされる時間がありました。
その時にこうおっしゃったのです。
「皆さんは鬼になったことはありますか。
私は…あります。
でもあの時は、鬼にならなきゃ生きていけなかった…。」
嗚咽を漏らしながら、そうおっしゃったのです。
何があったのか、私は知りません。
でもその言葉に、その姿に、私は打ちのめされました。
これは決して他人事ではなく、私のことであったと強烈なパンチをくらったようでした。
縁に触れれば、私自身が「鬼になる」という選択をするのです。自分を生かすためなら、自分を立てるためなら、平気で「鬼になる」という判断を下すのが私なのです。人を傷つけてでも自分を守ろうとするのが私だったのです。
私はそれまで、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」ということを、自分の中に鬼がいるんだと解釈していました。縁に触れれば鬼がひょっこり顔を出して悪さをしていく、そんなイメージを持っていました。けれどもそれは、「私は鬼じゃない。悪いのは私の中に巣食う鬼で、私自身は悪くないんだ」と思い込もうとする自分の弱さや甘えであったと気付かされました。
九州出身の方の言葉によって、鬼というのは他の誰でもない私自身であったと気付かされたことでした。
けれども親鸞聖人はこうもおっしゃいます。
「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
私なりに訳しますと、
「阿弥陀さまはとっくの昔にそんなことはご存知なんですよ。あなたが鬼であることなどとっくの昔に知り抜いた上で、だからこそあなたを救わねばならないと立ち上がって下さったんじゃないですか。だから悪人が救われることが間違いないのですよ。」とお示しくださったのです。
阿弥陀さまは「鬼は外」とは言わない。「鬼は内、鬼こそ内」と私に涙を注いでくださる仏さまでありました。
親鸞聖人にとって悪人正機とは、「こんな私が阿弥陀さまの救いの目当てだったんです」という喜びそのものに他ならないのです。
合 掌
(2021年7月20日 発行)