『レレレのおじさんに聞く』 読む法話 日常茶飯寺 vol.18

『天才バカボン』誰もが一度はその名を聞いたことがあるくらい有名な赤塚不二夫さん作の漫画です。

実は天才バカボンと仏教は深いつながりがあるということを皆さんはご存知でしょうか。まずバカボンという名前の由来はバカなボンボンではないのだそうです。インドの言葉で「バガヴァーン」という言葉があり、これは「悟れる者」という意味でお釈迦さまのことを指す言葉なのだそうです。このバガヴァーンに漢字を当てはめたのが婆伽梵(ばがぼん)で、これがバカボンの由来なのだそうです。

バカボンのパパの口癖である「これでいいのだ」というのは、どんな物事に対しても自分の価値観で良し悪しを決定しない、現実のありのままを受け入れる悟りの境地の言葉なのだそうで、実はとてつもなく深いことを言っていたんです。

その『天才バカボン』の登場人物にレレレのおじさんというキャラクターがいます。いつもほうきを持って掃き掃除をしながら「おでかけですか」と聞いてくる、あの人です。実はお釈迦さまの教団の中にレレレのおじさんのモデルになった人がいたのです。その人の名は、チューダパンタカ。

阿弥陀経の中では周利槃陀伽(しゅりはんだが)という名で登場しています。

チューダパンタカは極端に物忘れのひどい人でした。どれほど物忘れがひどいかというと、自分の名前をも忘れてしまうのです。自分の名前を覚えられないので名前を書いた木の板をいつも首から下げていたそうです。

そんなチューダパンタカは兄のマハーパンタカと一緒にお釈迦さまの教団に入りました。

チューダパンタカはいつもお釈迦さまの説法を近くで聞いていました。けれども、どんなに聞いても数分後には忘れてしまっているのです。

そんなチューダパンタカを知る人たちはみんな彼を「愚か者」と馬鹿にして笑いました。でも、どんなに馬鹿にされても、笑われても、チューダパンタカはお釈迦さまの側を離れようとはしませんでした。チューダパンタカはお釈迦さまのことが大好きなのです。

笑い者になっている弟を見かねた兄のマハーパンタカは付きっきりでお釈迦さまの説法の内容を一息で言えるほどの短い詩にして教えました。しかし、一つ覚えたら一つ前のを忘れ、また一つ覚えたらさっきのを忘れ、全く前に進みません。何も覚えられないまま4ヶ月が経ち、とうとう業を煮やした兄のマハーパンタカが、「もうお前には無理だ。教団を抜けて故郷へ帰りなさい。」とチューダパンタカを突き放します。

唯一の味方であった兄にまで見放されたチューダパンタカは涙を流し途方に暮れながら、とぼとぼと故郷への帰路についたのです。

ところが、その様子をご覧になったお釈迦さまが「チューダパンタカよ、どうしたのですか」と尋ねます。

チューダパンタカは涙ながらに言います。

「あぁお釈迦さま。私ほどの愚か者はおりません。お釈迦さまのお説法を聞いてもすぐに忘れてしまうのです。それでとうとう兄にまで『故郷へ帰れ』と言われてしまいました。」

それを聞いたお釈迦さまは、

「いいかい、チューダパンタカよ。自分が愚か者であるということを知っている人こそ智慧の人(真実をありのままに見ている人)です。愚か者でありながらわずかな才能を誇って自分は特別だと思っている人こそ真の愚か者なのですよ。」

と言うと、一本のほうきをチューダパンタカに渡し、

「塵(ちり)を払わん、垢(あか)を除かん」ととなえながら掃除するように言いました。

掃除を命じられたチューダパンタカは「まだここにいてもいいんだ」と涙を流して喜び、それから毎日明けても暮れても掃除に励みました。

「塵を払わん、垢を除かん」という言葉さえも忘れそうになりましたが、その度に周りにいた親切な友人たちが助けてくれました。

何年も朝から晩まで塵一つなくなるほどに徹底的に掃除をする生活の中で、チューダパンタカはある発見をします。

「昨日あれほど完璧に掃除をしたのに、翌日にはもう塵がうっすらと積もっている」

おかしいなと思いながら、また徹底的に掃除をします。

でもやっぱり翌日にはうっすらと塵が積もっているのです。

「こんな部屋をお釈迦さまに使っていただくわけにはいかない。塵を払わん、垢を除かん、塵を払わん、垢を除かん、塵を払わん、垢を除かん…」とせっせと掃除をするチューダパンタカがふと顔を上げると、窓から太陽の光が差し込んでいました。その光に照らされて空気中に漂う塵の一つ一つがはっきりと見えたのです。

「あぁ、塵はなくならないんだ」と気付いた時、「塵も垢も自分のことであった。自分の欲望というのは払っても払っても、次から次に積もっていくものなんだ」と、お釈迦さまが「塵を払わん、垢を除かん」とおっしゃった言葉の真意に気付いたのです。

そしてチューダパンタカは天眼を得た、と経典に説かれます。つまり悟りを開いたのです。

このチューダパンタカの話は色々なことを教えてくださっています。

まず、真の愚か者は誰かということです。

心のどこかでチューダパンタカを馬鹿にする自分はいなかったでしょうか。自分は自分の名前を覚えているし、短い詩なら3日もあったら覚えられるわ、とどこかでチューダパンタカを見下す自分はいなかったでしょうか。恥ずかしながら私にはそういう自分がいました。お釈迦さまはそんな私のような人に「愚か者でありながらわずかな才能を誇って自分は特別だと思っている人こそ真の愚か者なのですよ。」とおっしゃったのでしょう。本当に耳の痛い話です。

そしてチューダパンタカが「塵はなくならない」と気付いたのは塵のありのままの姿を見たからでした。でも考えてみると、「塵が見えた」ということは同時に「光があった」ということでもあります。

光なくして塵を見ることはできないのです。

それと同じで、自分が愚かであったと知らされるところには必ず光がはたらいているのです。その光を親鸞聖人は智慧光(ちえこう)、阿弥陀さまの光であったと喜ばれたのです。

今私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出ること、耳や目からお念仏が聞こえてくること、それはもうすでに私も光の中にあったということです。どんな愚か者も決して見捨てないという光に包まれて、何者でもないただの愚か者として生きる、それは私が「私」として生きるということなのかもしれません。

もしかしたらそれは生き辛い現代を生きる私たちが本当は何より望んでいる生き方なのかもしれません。

合  掌

(2021年6月16日 発行)