『雑行を棄てて本願に帰す』 読む法話 日常茶飯寺 vol.17
私の友人に高校3年間を野球に費やしたK君という男がいます。彼は強打者で4番バッターを任されていました。
高校3年生の夏の地方大会1回戦。負ければ野球部引退です。
9回裏1対2。1点を追う状況で1アウト、ランナー3塁。ヒットが出れば同点、ホームランを打てば逆転勝ちという場面で4番バッターのK君に打順が回ってきたのです。打たねば高校3年間の野球生活が幕を下ろすことになる。
K君は4番の意地とチームメイトの期待を背負い渾身の力を込めてバットを振りました。
「ストライク!バッターアウト!」
K君の全身全霊をかけたフルスイングは見事に空を切ったのでした。
2アウトにはなりましたが、未だ一打出れば同点のチャンスです。
「頼む!打ってくれ!」と、チームメイトは5番バッターに対して必死の声援を送ります。三振に倒れたK君もベンチに戻り応援に加わります。
結局、5番バッターは内野ゴロに倒れ試合終了。高校3年間の野球生活はそこで幕を閉じたのでした。
あれから何年も経ってからのことです。
K君はその時のことを振り返ってこう話していました。
「あの時9回裏の大事な場面で三振してしまってなぁ。次の5番バッターをチームのみんなが必死で応援しとる中で、実は俺、心の中で「打つな!」って思ってたんよ。」
5番バッターに打たれてしまったら4番である自分の面目が丸潰れ。自分の面目を保つためならチームの負けをも願ってしまう自分がいた、と話してくれたのです。
きっと「負けたくない」「終わりたくない」という気持ちも強くあったと思います。あらゆる感情が入り混じって昂っている中に「打つな」と願う自分がいた。そんな自分を許すことが出来ずに何年も苦しんだのだろうと思いました。
もし私が彼の立場だったら、そんな自分の汚い部分など見ないようにしただろうと思いますが、目を逸らさず、逃げず、真正面からその自分自身を見つめた彼に私は尊敬の念さえ抱いています。
なぜそんな話をするかというと、親鸞聖人とはそのような人ではなかったかと思うからです。
親鸞聖人は9歳(今でいう満8歳)の時に親元を離れ、比叡山にて一人仏門に入られました。それから20年という長い年月を比叡山で過ごされます。
比叡山では悟りに近づくため、学問・修行を修めていきます。
親鸞聖人が比叡山でどのようなことをされていたのかは、残念ながら織田信長による比叡山焼き討ちによって多くの史料が焼失してしまいハッキリとしたことは分かりません。
しかし、比叡山におられた20年という年月と、決して妥協を許さないお人柄や比叡山での立場などを踏まえて考慮すると、比叡山で最も過酷な修行である千日回峰行を少なくとも2回は経験されたであろうと研究者の方は述べておられます。
千日回峰行というのは7年かけて通算1000日行われる超過酷な修行で、何があろうと途中でやめることは許されません。700日を過ぎると、最も過酷とされる「堂入り」と呼ばれる修行に入ります。これは9日間飲まず、食わず、寝ず、横にならず、読経し続けるのです。
私は千日回峰行を達成した方の話を聞いたことがあるのですが、その方は堂入りの9日間の途中で心臓が止まったそうです。外に運び出されて体に水をかけられると再び心臓が動き出し、修行を完遂したと話されていました。本当に命をかけた壮絶な修行であることがお分かりいただけると思います。
親鸞聖人はそんな修行を、少なくとも2回されたというのです。
悟りを目指していくということは、汚い自分を滅していくということです。
親鸞聖人は誰よりも自分の汚さ、愚かさを凝視し続けたお方です。そんな自分をどうしても許すことが出来ない。目を背けることも誤魔化すことも出来ない。これでもか、これでもか、と汚い自分を滅するために学問・修行に明け暮れた、それが親鸞聖人の20年でした。想像も及ばないほど苦しい20年だったことでしょう。
その20年の求道の末に29歳の親鸞聖人が目の当たりにされたのは、「自分は変われなかった」というあまりに残酷な現実でした。
どんなに修行に励んでも自分の内に清浄なるものはひとかけらも見出せず、不浄なるものばかりが次から次に湧いてくる愚者でしかなかったと、親鸞聖人は29歳の時に比叡山を去ります。
そして生涯の師となる法然聖人(浄土宗の開祖)の元を訪ねていかれ、そこで阿弥陀さまの大いなる願いに出遇われるのです。
阿弥陀さまがなぜ仏になったか。それは、どんなに教えを聞いても、どんなに修行に励んでも、悟りに近づくことが出来ない者がいることを知ったからなのです。自分で自分を救うことができず、苦悩に沈む者をどうして放っておくことができようかと涙を流されたことが阿弥陀さまの出発点なのです。
親鸞聖人が20年もの命がけの求道の末に目の当たりにした「自分は愚者でしかなかった」ということなど阿弥陀さまは遠い昔にすでに知っておられて、救われようのない愚者だからこそ私が救わねばならないと立ち上がられたのです。
親鸞聖人にとって、20年間否定し続けてきた自分が、実はそのまま阿弥陀さまに願われていた自分であった。
「これじゃダメだ」と自己否定を繰り返してきた20年は、「そのまま救う」という大いなる願いの中で右往左往していた20年であったと知らされたのです。
親鸞聖人はご自身の過去について滅多に語られませんが、この29歳の時のことは晩年に振り返られて次のように語っておられます。
「建仁(けんにん)辛(かのと)の酉(とり)の歴、雑行を棄てて本願に帰す」
建仁辛の酉の歴とは1201年のことで、親鸞聖人29歳の年です。
「雑行を棄てて」とは、比叡山で20年間命がけで積み重ねてきたものを全部棄てるということです。それは同時に、歩むべき道が見つかったということ、それが「本願に帰す」です。歩むべき道が見つかったという事実が比叡山での20年を棄てさせたのです。
これは決して比叡山を批判しているのではありません。本願、阿弥陀さまの大いなる願いに出遇った時に、やっと苦悩の20年に答えが出せたのでしょう。
「やはり自分は愚者でしかなかった。けれど、愚者でよかったのだ」と。
いかなる自分であろうと決して見捨てない大いなる願いが今私の身の上にはたらいてくださっている、それが「南無阿弥陀仏」このたった一声のお念仏なのです。
5月21日は親鸞聖人のお誕生日です。お誕生月ということで今号は親鸞聖人について書かせていただきました。
合 掌
(2021年5月16日 発行)