『今コロナ禍に聞く』 読む法話 日常茶飯寺 vol.12
早いもので年の瀬を迎えました。今年は世界中が新型コロナウイルスに振り回された一年でした。自分が感染したらどうしよう、感染したら死んでしまうんじゃないだろうか、知らないうちに誰かに感染させていたらどうしよう、そういう不安の中で一年の大部分を過ごしました。
ウイルス一つでこんなにも自分たちの心や日常が乱れてしまうとは思いもよらないことでした。
私自身もどこか息苦しさを感じながら過ごした日々でした。今号は独りよがりな文章になってしまいますが個人的にコロナ禍で感じたことを書きたいと思います。
私は普段、ご門徒のお宅へお参りをする傍ら、他所のお寺の法要に招かれて法話をする布教使としてお仕事をさせていただいておりますが、春頃は緊急事態宣言の発令で各法要の中止・延期が相次ぎ、法話に出向くことがほぼなくなりました。
お坊さんの研修会や会議なども全て中止、ご門徒の皆さまも法事・仏事などを行うことが困難な状況になりました。
そういった状況の中で、住職として必要とされる機会がなくなり、布教使としても必要とされる機会がなくなりました。端的に言うと、暇になったんです。
西福寺の住職を継いでから2年、「住職として頑張るぞ〜!布教使として頑張るぞ〜!」というのが私の原動力であり生活の大部分でした。ところがコロナの影響で、住職として頑張れない、布教使として頑張れない状況になってしまったわけです。
エンジンはめちゃくちゃ元気だけどタイヤがない車みたいな感じです。
そんな状況の中で、お坊さん仲間たちがインターネットを利用して精力的に活動を始めていることをS N Sを通じて知りました。ユーチューバーになった仲間もいます。
仲間が頑張っている姿を見て喜ぶべきなのですが、何も出来ずにいた私は焦燥感に駆られました。みんな進んでいるのに、自分だけ止まっている―――取り残されたような、何とも言えない心地の悪さを感じました。
自分に出来ることは何だろうかと考えて、お寺で法要が行えない状況の中でご門徒の皆さまに仏教に触れていただく為に、コロナが収束するまでこの日常茶飯寺を毎月発行することにしました。
でも今思い返せば「ご門徒の皆さまに仏教に触れていただく為に」と言いながら、このまま自分は誰からも必要とされなくなるんじゃないだろうかという不安から住職である自分、布教使である自分にしがみついて自分を保とうとしていたんじゃないか、そんな気がしています。
日常茶飯寺第4号で「親鸞聖人は『何者でもない』という生き方をされたお方でした」と味わっていながら、コロナ禍で必死で何者かであろうともがいていた私でした。
改めて気づかせて頂いたことは、私はやはり何者でもなかった、ということ。
私は元来、住職でもなければ布教使でもなく、お坊さんでもないただ1人の愚か者。
「住職さん、住職さん」と、私を住職として必要としてくださるご門徒の方々がいてこそ私は住職でいられますし、「布教使さん、布教使さん」と私を布教使として必要としてくださる方々がいてこそ私は布教使でいられるのです。
これを仏教では「縁起」と言います。縁起とは「縁によって起こる」ということで、「物事はあらゆる縁が重なり合って成り立っている、自分の力だけで成り立っているものなど一つもない」というのです。
まさに、ご門徒の方々との縁があってこそ私は住職であったり、布教使であったりする。私は住職だ!布教使だ!というのは傲慢な思い違いであって、おかげさまとしか言いようのない縁の中で生かされていたことに気付かせていただきました。
コロナの影響で当たり前にしてきた日常が崩れ、勝手に作り上げてきた自分像が崩れたからこその気付きでありました。
そしてもう一つ、気づかせて頂いたことがありました。
本願寺第八代(親鸞聖人が初代)門主の蓮如上人の御文章の中に疫癘章という章があります。御文章というのは蓮如上人がご門徒に宛ててお書きになられたお手紙です。蓮如上人がおられた頃も病気が流行ったそうで、お手紙の中でそのことについて書かれているので当時もよほどの混乱があったのだろうと思われます。
その中でこんなことが書かれています。
「このごろ疫病が流行り、多くの人々が亡くなっておられます。しかし、人は疫病が原因で死んでしまうのではないのです。死ぬということは、生まれたときから決まっているのです。生まれてきたから死ぬのです。」
今年は新型コロナウイルスの感染拡大によって、誰もが今まで以上に自分の死を身近に感じたのではないでしょうか。
感染する不安や死の不安から私たちの心は暗くなり、視野も狭くなりました。感染した人を差別したり、マスク着用の有無で暴力事件が起きたり、外出する人を責めたり、政治家を責めたり…
でも、私たちはコロナがあろうがなかろうが、生まれてきた以上死ぬことは間違いないのです。病気にかかる不安や死の不安は誰もが生まれた時からずっと背負ってきたはずです。でも私たちは平穏な日々の中でそれらの不安に見て見ぬふりをしてきたのではないですか。
自分の死という現実に蓋をして、明日があることを前提にしなければ生きていけないのが私たちなのかもしれません。
今このコロナ禍にあって本当に大切なことは、自分が抱える病気の不安や死の不安の矛先を誰かに向けることではないはずです。必ず死なねばならない自分の人生を見つめ直し、私が生きるとはどういうことか、私が死んでいくとはどういうことか、私の命の行き先はどこなのか、そのことを仏教に問い、聞いていくことこそ大切なことではないでしょうか。仏教、浄土真宗の教えはそういった問いに応えてくれる宗教です。
コロナが収束してまた平穏な日常が戻ったとしても、決して忘れてはならないことが今私たちの目の前に突きつけられているのではないか、そう味わったならコロナ禍の苦しい日々にも意味が見出せるのかもしれません。
少なくとも、このコロナ禍という歴史的にも稀有な状況をただ我慢の日々で終わらせてしまってはあまりにもったいないのではないでしょうか。
私自身そのことを胸に刻んで、また来年も日常茶飯寺を発行していきたいと思います。拙い文章を恥ずかしげもなく書いてきましたが、毎回読んでいただき有り難うございました。来年もまた懲りずに発行していきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
合 掌
(2020年12月7日 発行)