『一人じゃなかった』 読む法話 日常茶飯寺 vol.10
これまで「そもそも仏教ってどんなん?シリーズ」として三部経について書いてきました。聞き慣れない言葉がたくさん出てきて読みづらかったと思いますが、読んだよ〜!と言ってくださることがとても励みになっています。いつも読んでくださってありがとうございます。
今号は「仏教ってどんなんシリーズ」を一旦離れて書きたいと思います。
去年のことですが、お寺の本堂でご門徒の法事がありました。読経が終わり法話をしていると、我が家の長男(当時5歳)が本堂へ入ってきて、何をするでもなくうろちょろうろちょろしているので「向こうへ行ってなさい」と言いました。
法事が終わり、「門徒さんの大事なお勤めなんやから邪魔をしたらアカンよ!」と長男を叱りました。
ところが後から聞いてみると、料理中で手が離せない妻が長男に「本堂のお父さんの様子を見てきて」と頼んだというのです。
長男はお母さんの力になろうと思ってお手伝いのつもりで本堂に来たのですが、「お父さんの様子を見てきて」の意味が今ひとつ理解出来ておらず、色んな角度から私の様子を見ていたのでした。
長男からしたら、お手伝いをしたのになんで怒られるんだろう、と思ったことでしょう。
そのことを知って、邪魔をしに来たのだと勝手に決めつけて叱ってしまったことを長男に謝ったことがありました。
我が子のことなのに、ちゃんと見ているようで何も見えていなかったと反省したことでした。叱るにしても、ちゃんと子どもの思いを聞いた上で叱らないといけないな〜なんて思っている矢先、目の前で子どもが障子の紙を破っていたりすると、「コラ〜!何やっとるんじゃー!」と言ってしまっている私です。
悲しいかな、ものごとの表面だけを見て自分勝手な解釈を正しいと思い込んでしまいがちなのが私たちなのではないでしょうか。そこに誤解が生じ、争いが生まれてくるのです。それでも自分は正しいと思っている者はふりかざした剣を鞘に収めることが出来ません。人を傷つけるのは大体が善意なのです。
仏教ではそんな私たちのありようを無智とか無明と言います。無智とは智慧が無いということ。智慧とは、真実を正しく見極める力です。無明とは明かりが無いということですから、真っ暗で何が正しくて何が間違いかが分からないということです。
それに対して阿弥陀さまは真実を見極める智慧をそなえた仏さまです。
無量寿経には阿弥陀さまについて『もろもろの衆生において視そなわすこと、自己のごとし』と説かれています。
「衆生」というのは生きとし生けるもの、ということですが、「私」と解釈したらいいと思います。「視そなわす」とは「視る」の尊敬語です。「阿弥陀さまは私のことを我がこととして視ておられる」という意味です。悟りを開いた方というのは、自分と他人の境界線が無いのだそうです。だから、私が抱える苦しみや悲しみを「苦しそうね、悲しそうね」ではなく「苦しいね、悲しいね」と、その痛みを知った上で受け止めてくださるのが阿弥陀さまなのです。
ここで注目したいのは「視」という漢字が使われていることです。
「見る」ではなく「視る」なのです。
「見る」とは辞書によると「視覚によって物の形・色・様子などを知覚する」とあります。これは表面的なものの見方を表しています。
それに対して「視る」には、注視とか視察という言葉もあるように、物事の奥深くまで見通す、という意味があります。
阿弥陀さまはただやみくもに「生きとし生けるものを救うんだ」と立ち上がったのではなくて、無智であり無明である私のありのままを「視た」からこそ、立ち上がった仏さまなのです。
「視る」ということで一つ思い出す話があります。
前に、お寺で保育園を運営されているお坊さんの講演を聞きました。その講演の中で保育園で実際にあった出来事を話されました。
ある日、4歳の園児たちが園庭でいつものように賑やかに遊んでいました。
すると突然こんな声が保育園中に響き渡りました。
「せんせーい!健太くん(仮名)がおしっこもらしとるー!」
その声を聞いて担任の女性の先生が急いで駆けつけてきます。
健太くんは「うぅぅぅ…うわぁーん!」と大声をあげて泣き出してしまいました。健太くんの足元にはおしっこの水たまりができています。
さて、ここでちょっと考えてみてください。駆けつけてきた先生は健太くんに何と声をかけたでしょう。
私は単純に「もう4歳なんだから、おしっこって言えるでしょう。お口がついてるんやから今度からはおしっこってちゃんと言うてね」みたいな感じかな〜なんて思っていましたが、全然違いました。
健太くんの元に駆けつけた先生は満面の笑顔でこう言ったそうです。
「健太くん、よかったねぇ!保育園でおしっこができたねぇ!」と言っておしっこでびしょびしょになっている健太くんを抱きしめたそうです。
この先生の一言から想像するに、きっと健太くんは保育園に入園してからずっと「先生、おしっこ」と言えなかったのでしょう。もしかしたら保育園自体に馴染めずにいたのかもしれません。おしっこに行きたくなっても平静を装って我慢して我慢して、家に帰るまで我慢をして…。
ところが、とうとう我慢の限界がきてしまったのです。絶対にあってはならないことが起こってしまったのです。
健太くんにとって、おもらしをしてしまったということはどれほどの絶望だったでしょう。冗談抜きに、「もう生きていけない!」と思うほどの大問題であったに違いありません。
ところが先生は健太くんのことをずっと「視」ていたのです。先生は知っていたのです。健太くんが「先生、おしっこ」と言い出せずに毎日毎日我慢していたことを。おもらしをしてしまったことを責めたら健太くんがどれほど傷つくかということを。
苦しかったのは健太くんだけじゃない。先生も一緒に苦しんでいたからこそ咄嗟に「よかったねぇ!」という言葉が出てきたんだと思います。
先生はおしっこができた健太くんを抱きしめて褒めましたが、それは同時におしっこと言えなかった過去の健太くんまでも抱きしめていたのです。
健太くんにとって、誰にも言えない秘密を抱えた保育園生活はずっと孤独だったんじゃないかと思います。でも「よかった」と言って抱きしめてくれる先生の温もりの中で健太くんはきっと感じ取ったことでしょう。「一人じゃなかった」と。あの我慢の日々全てが報われた瞬間ではなかったかと思うのです。
人は誰しも、他人には言えない苦しみや悲しみを背負いながら、平静を装って生きているのではありませんか。でも、その苦しみや悲しみを既に知り抜いて涙してくださった方がいたらどうでしょう。ただ一人分かってくれる人がいる、それだけでもう十分なのかもしれません。まさにそのお方こそが阿弥陀さまなのです。
私の何もかもを「視」たからこそ、あなたを放っておけんのよと抱きしめてくださる、それが南無阿弥陀仏のお念仏です。
親鸞聖人は「阿弥陀さまのその大きなお心は、私親鸞のためにありました」と喜ばれ、生涯お念仏と共に生きたお方でありました。
なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏申す中で「一人じゃなかった、一人じゃなかった」と喜ばれたのでした。
合 掌
(2020年10月1日 発行)