『阿弥陀経ってどんなん?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.9

暑かった8月も、過ぎてみればあっという間だったように思います。

今号ではいよいよ浄土三部経の3番目、阿弥陀経について書きたいと思います。

皆さんここまでよく一緒についてきてくださいました。

唐突ですが、お釈迦さまが教え(お経)を説かれるのは、決まって弟子の質問に対して、でした。例えば三部経の1番目の無量寿経は阿難の質問に対して説かれましたし、2番目の観無量寿経はイダイケの質問に対して説かれました。

ところがこの阿弥陀経は異例で、誰も何も聞いてないのにお釈迦さま自ら口を開き、一方的に説かれたお経なのです。

最晩年のお釈迦さまが問いを待たずして自ら説かれたこの阿弥陀経には、「これだけは言っておかなくてはならない」という強い思いがあったのだと思われます。

問いが無く、お釈迦さま自ら説かれたお経、ということで「無問自説の経」と言われています。

ちなみにこの阿弥陀経が説かれたのは祇樹給孤独園精舎、通称 祇園精舎です。祇園精舎の鐘の声…というフレーズが有名ですね。

今回の阿弥陀経の内容を簡単に言うと、「西の彼方に極楽という素晴らしい世界がある。その世界の主は限りない光明と寿命をそなえた阿弥陀如来である。その極楽に生まれたいのならば、ただ念仏しなさい。東方・南方・西方・北方・上方・下方の六方におられる数限りない全ての仏さま方が「この経は間違いなく真実であると讃えている」という内容です。

特に極楽(浄土)の情景については鮮やかに説かれています。そこには有名な「倶会一処」という言葉も出てきます。よくお墓に刻まれている言葉です。これは「倶に一つの処で会する」つまり、また会える世界があるんだよ、というお言葉です。私たちの命は死んでむなしく終わっていく命ではない、極楽でまた会えるんだよと説いてくださったのです。

そして、この阿弥陀経の終盤に衝撃的な言葉が出てきます。

それは「一切の世間の人々のために、この難信の法を説くのである」という言葉です。「こんなこと説いても世間の人々は誰も信じないでしょう」と言っているようなものです。

普通、宗教というのは「信じなさい」というのが大前提だと思いますが、お釈迦さまは「誰も信じない」と言うんです。

「誰も信じない」というのは「疑う」と言い替えることもできると思いますが、疑いには2通りあります。

1つ目は、「信じない」という疑いです。極楽を見た人も、行って帰ってきた人もいないのに信じるわけにはいかない、という疑いですね。極楽浄土って本当にあるんだろうか?というのは誰しも抱いている疑問かもしれません。

2つ目は、「信じる」という疑いです。妙なことを言うようですが、「信じる」ということは「疑っている」ということなのです。例えば、我が家の長男は小学校1年生なので、毎朝「行ってきます」と言って小学校に出かけて行きますが、もしそこで私や妻が「信じてるからね」と言うとどうでしょう。「もしかするとこの子は学校へ行かずにどこかに遊びに行くんじゃないか」と疑っているのでしょう。この子は間違いなく学校へ行くんだと疑いがない時には「信じてるからね」などと言う必要はありません。疑いがないということは信じる必要もなく、ただそこには安心のみがあるということなのでしょう。「信じる」ということに力が入れば入るほど、それは疑っているということなのです。

 また仏教に興味を持っていろんな知識を身につけていくうちに、私たちはその知識に執着しかねません。いかにも仏教のことを知っているように「お経のここにはこう書いてあってね…」と物知り顔をしたくなります。そうなってしまうと仏教を信じているというより、仏教のことをちょっとばかり知っている自分を信じたいのかもしれません。私には耳の痛い話です。

親鸞聖人は「私たち人間には何が真実で何が偽物かを見分けることが出来ない」とおっしゃっています。自分の殻に閉じこもり、たとえ目の前に真実があっても「これで間違いない」と確信を持てないのが私たちなのでしょう。

「信じる」ということが限りなく難しい、お釈迦さまはそういう人間の愚かさを全て知り抜いた上で「誰も信じないでしょう」とおっしゃるのです。改めて味わってみると、見事に自分のことを言い当てられているような気がします。

昔は情報も少なかったし娯楽も無かったからおとぎ話のような極楽の話を信じられたんだろうけど、科学が発達し情報過多の現代に生きる人たちにはそんな話は通用しないだろう、という思いが私にはありましたが、そうではないんです。2500年前のお釈迦さまがおられた頃も世間の人々は極楽を信じることが出来なかった。時代は変われど、国が違えど、人間の本質は変わらないのです。

どんなに極楽や阿弥陀さまの素晴らしさを説いても、世間の人々は信じることが出来ない。信じるべきものを信じ切ることのできない人間の哀しさを知り抜き、胸を痛めたお釈迦さまだからこそ「これだけは言っておかなくてはならない」と誰からの問いも待たずに自ら阿弥陀経を説かれたのです。

そのお釈迦さまが阿弥陀経を通して最も言いたかったことは「ただ念仏しなさい」でした。信じるとか信じないとか自分のはからいを抜きにして、ただ念仏しなさいとおっしゃるのです。

この念仏こそ三部経1番目の無量寿経に説かれた念仏(第7号を参照)です。阿弥陀さまは信じる者だけを救う仏さまではありません。むしろ、信じるべきものを信じ切ることのできない愚か者、救いようのない者こそ私が救わなければ誰が救うんだと立ち上がってくださった仏さまが阿弥陀さまなのです。

親鸞聖人は「信心」ということを非常に重要視されました。「信心」とは信じる心ではなくて、南無阿弥陀仏の名号を自分のはからいを交えずそのまま聞き受けることだとおっしゃいました。南無阿弥陀仏の名号とは「私に任せなさい。どんなあなただろうと必ず救います。」という阿弥陀さまのはたらきです。それをそのまま聞き受けるのです。

例えば、母親に抱かれている赤ちゃんは母親を「あなたは私を落としたりしないでしょうね」と疑ったりするでしょうか。反対に、「この人は私を落とさない落とさない落とさない…!」と母親を信じようと努力したりするでしょうか。

きっと母親と赤ちゃんの間には疑いなど存在しません。ならば信じるということも存在しないのです。母親から注がれた愛情を何のはからいも交えずそのまま受け止めたそこにあるのはただ安心なのでしょうね。

私が信じようと信じまいと、「この阿弥陀に任せなさい。どんなあなただろうと必ず救います。」という阿弥陀さまのはたらきが今、私のもとに「南無阿弥陀仏」と届いた、これは疑いようのない事実です。それをそのまま聞き受けるということは「ただ念仏」することに他なりません。

「一切の世間の人々のために、この難信の法を説くのである。」

もしかするとこの言葉はお釈迦さまが私に「あなたのために阿弥陀経を説いたんだよ」とおっしゃっているのではないか、そんな気さえしてくるのです。

合  掌

(2020年9月10日 発行)