『嘘』大前しでん小説
それは、凍えるような朝で始発を待って戸締りもそこそこに後は何もかも放り投げ飛び乗った。
そして、乗車した車窓に映る僅かな唇を確認し人目を少し憚りながら薄紅のルージュをそっと引いた。
「これって派手かしら?」
けれど、このルージュを付けていたかった。
真由美は、その連絡が入ってから一睡もできずいつもならラインで済ませてしまう兄とのいい加減なやり取りも、昨日からは電話に切り替え腫れモノ相手と関わり合うかのようにその一言一句聞き漏らす事が無いようスピーカーから途切れ途切れ発せられる兄の沈んだ声に耳をそばたてていた。
「あっ、ラインだ!」
「真由美、今な母ちゃん息引き取ってしもうた」
えっ!うそ、うそよね。
何かの間違いに決まってる。
だって、だって、今年のお盆には家族写真を観ながら互いに顔をくしゃくしゃにして思い出話に花を咲かせ盛り上がったじゃない。
それに、二週間前だって畑でとれた旬の白菜を宅急便で自家製のラッキョウ漬けと一緒に送ってくれてラインでやりとりをした。
あの母ちゃんが逝った⁉
うそに決まってる。
母ちゃんは絶対に死なない。
死ぬはずがない。
母ちゃんは超人、鉄人、仙人。
とにかく、死ぬはずはないのよ。
真由美の心と体は静かに座席の奥深くへ沈み込んでいった。
そして、気持ちは酷く狼狽しあれだけうそと言い放った心の叫びを翻すようには目元は灰色に染まり涙で溢れかえっていた。
今思えば、きっといつかは別れる日が来ることを考える機会はあった。
友達のお父さんが亡くなって葬儀に参列した時には少し他人事と思いながらも。
しかし、こんな不意を衝かれた現実を信じられるはずがない。
「あっ、またラインだ」
それは、母ちゃんが息を引き取る一時間前に私宛に語った兄との口実筆記だった。
「まぁちゃん、母ちゃん先に逝っとるケンね楽しか人生じゃったよ、まぁちゃんも早よさお役目立派に全うして母ちゃんとこに来んさいな」
「わかってとる、ほんでも、母ちゃんほんまに逝ってしもたんか?
まだ、見とらんけん信じれんの、もうじき着くけんね、もう少しでさ。
早よう、母ちゃんの匂い嗅ぎとうて嗅ぎとうてたまらんの」
真由美は、お盆に貰ったこの紅を鏡に映し強く塗り直した。
弔いの 想い募りて 母を塗る