『お釈迦さまってどんな人?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.6
皆さまにおかれましては、新型コロナウイルスの影響により生活に多大な影響を受けておられることと思います。
法要が行えない状況にあってお坊さんとして私に出来ることは何だろうかと考え、この日常茶飯寺を収束するまでの間、毎月発行することにしました。私自身の勉強も兼ねて「そもそも仏教ってどんなん?」というテーマで書いていきたいと思います。これを機に仏教、浄土真宗にさらに親しみを持っていただけるような内容にしたいと思っています。
まず最初はやはり「お釈迦さま」のことについて書かねばなりません。
お釈迦さまは今から2500年ほど前に実際にインドにおられた方です。2500年たった今でも知らない人はいないほど名が知られているというのはすごいことですよね。
お釈迦さまは多くの教え(お経)を残されました。その教えの数は8万4000にもなると言われます。なぜそんなに多いのかというと、教えが一つだと問題があるからです。
私は子どもを授かる前に妻と二人である料理教室に参加したのですが、料理経験のある妻と料理経験のほとんどない私が同じ料理教室に参加するのはかなり無理があったように思います。班ごとに分かれて料理をするのですが、先生が言っていることがイマイチよく分からない私は班の中でも明らかに戦力外であり、ひたすら雑用に励みました。先生は限られた時間の中で集団を相手にしていますから、私のような初心者中の初心者にペースを合わせていたんじゃいつまでたっても料理など完成しないので仕方のないことです。しかし教えが一つならば、出来る人と出来ない人が生じてしまいます。
お釈迦さまは「出来ない人」を問題にされたからこそ多くの教えを残さねばならなかったのです。一人ひとりの素質や能力を見抜き、その人に合った教えを説いてどんな人をも導いていかれた、これを「対機説法」といいます。
ここで、一つの逸話を味わってみましょう。
お釈迦さまがおられた頃のインドに「キサーゴータミー」という女性がいました。夫との間に男の子を授かり、ありったけの愛情を注いで育てました。しかし、その男の子がようやくよちよち歩きが出来るようになった頃に亡くなってしまったのです。キサーゴータミーは半狂乱になり、男の子の遺体を抱き「薬をください、薬をください、この子を生き返らせる薬をください」と泣き叫びながら町中を歩き回りました。しかし、そのあまりに悲痛なキサーゴータミーの叫びにみんな耳を塞ぐばかりで、誰にもどうすることも出来ませんでした。
そんな中、キサーゴータミーはお釈迦さまの噂を聞きつけてお釈迦さまのもとへやってきて言います。
「お釈迦さま、お願いです。死んだ我が子を生き返らせてください。もし生き返らせてくださるのなら何だってしますから。」
泣き崩れるキサーゴータミーにお釈迦さまは優しく言います。
「わかりました。その子を生き返らせてあげましょう。ただし、一つお願いがあります。1人も死人を出していない家を3軒訪ねて、芥子の実(あんパンの上に乗っているつぶつぶ)を1粒ずつもらってきてください。そうすればその子を生き返らせてあげましょう。」
やっと、やっとこの子を生き返らせることが出来る…!と喜んでキサーゴータミーは町へ戻っていきました。
「トントン」最初の家のドアを叩き、出てきた主人に尋ねます。「お宅から死人が出たことはありますか?」
「あぁ、もちろんありますよ。去年おふくろが亡くなりました。」
その後も町中の家のドアを叩き続けます。
トントン「お宅から死人が出たことはありますか?」
「ええ、ついこの間主人が病で死んだのよ。」
トントン「お宅から死人が出たことはありますか?」
「おじいさんが20年ほど前に死んだよ。」
トントン
トントン
トントン
…
手当たり次第訪ね歩きますが、誰に聞いても死人の出ていない家など一軒も見つかりません。
そしてキサーゴータミーは気付きます。死はどこの家にもあるということに。死は避けられないということに。
結局キサーゴータミーは1粒の芥子の実も持たずにお釈迦さまのもとに戻り言いました。
「お釈迦さま、私は町中の全ての家を訪ねましたが、死人を出していない家はありませんでした。人の命には老いも若いもない、みんな死を受け入れなければならないのですね」
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、その後出家して生死輪廻の苦しみを超えた、仏の悟りを求めていきました。
お釈迦さまは言葉なくしてキサーゴータミーを導かれたのでした。
キサーゴータミーが「我が子を生き返らせてください」と訪ねてきた時に、「いいかい、この世は諸行無常と言ってね、生まれた者は必ず死ぬんだよ…うんぬんかんぬん」と説くことも出来たでしょう。でもそう言ったらどうでしょうか。きっとキサーゴータミーは納得せずにまた泣き叫びながら別の誰かを訪ねていったでしょう。正論は時として相手を根底から否定する刃となりうるのです。
そのことを心得ておられるお釈迦さまは無理難題を言うキサーゴータミーを一旦引き受けますが、彼女が望んだ結果とは全く違った結果をもたらしました。
とても厳しいことですが、死にゆく命を生きている私たちにとって大切なことは生き返ることではなく、死を受け入れ、死を超えていくことなのでしょう。そのことをお釈迦さまはキサーゴータミーに分かって欲しかった。ただそれはどんなに言葉を並べたところで理解出来ることではありません。
だからお釈迦さまはキサーゴータミー自身がそのことに気付くように芥子の実を集めてくるよう仕向けたのでした。
そしてキサーゴータミーは、お釈迦さまの穏やかな顔の奥に死を超えた仏の姿を見たのです。
このように、お釈迦さまは相手に応じて教えを説き、どんな人をも導いていかれました。
そのお釈迦さまが凡人を救うために説かれた教えがあります。その教えこそが私たち浄土真宗の拠り所となる「浄土三部経」です。
次号では浄土三部経とはどんなお経か、かなり大まかにはなると思いますが書きたいと思います。
合 掌
(2020年6月1日 発行)