『いつでもど真ん中』 読む法話 日常茶飯寺 vol.74
身内話になりますが、先月、前住職の娘である尾野麻子(私と坊守にとっては義理の姉になります)が60年の生涯を閉じ、お浄土へと往生いたしました。通夜・葬儀は親族葬にて執り行わせていただきました。
麻子は昨年の秋頃から度々肺炎(誤嚥性)を起こし、入退院を繰り返していました。肺炎そのものは治療をすればすぐに良くなるのですが、食事を再開するとまた肺炎を起こす、という繰り返しで、結局は麻子自身の嚥下機能が低下していることが原因でした。最期は病院の先生が善処してくださり、苦しむことなく穏やかに生涯を閉じていきました。麻子が生前中に賜りましたご厚情に対し、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
麻子の死を通して、命というものはいつ、どこで、どうなるか分からないのだと痛感しています。
私は明日があることを前提にして生きています。ご門徒の方から「◯月◯日に法事を勤めたいのですが…」とお電話をいただけば、「分かりました。予定しておきますね」とお返事をして予定表に書き込む。それは、その法事の日に自分が生きていることを前提にしています。
そういう毎日を過ごす中で、いつしか私は生きていることを当たり前にして、死ぬことが稀有なこととして受け止めています。だから身近な方の死を前にした時に驚き、嘆き、「まさかこんな日がくるなんて…」と涙に暮れるのです。
しかし仏教は「それは反対だぞ」と教えてくださいます。
本当は、今生きていることが稀有なことであって、死ぬことが当たり前なのです。
私たちがなぜ死ぬのか、それは生まれてきたからに他なりません。誰しも死亡率は100%です。そしてそれは今日かもしれず、明日かもしれず、誰にも分からないのです。分かっていることは、今この一瞬一瞬が間違いなく死に向かっているということです。
時々、ご高齢の方が「お迎え」という言葉を口にされます。
「私はもう十分生きさせてもらったから、早くお迎えが来てほしい」と。
この「お迎え」のルーツは仏教にあります。専門用語で「臨終来迎」といいます。生前に積んだ善い行いによって命を終えるその時に仏さまや菩薩さまが連れ立ってお迎えに来られるというのです。スタジオジブリが製作したアニメ映画「かぐや姫の物語」の中で、かぐや姫が月に帰るシーンはまさにこの臨終来迎の様子が描かれています。仏さまや菩薩さま方がチャンチャカ賑やかに楽器を鳴らしながらお迎えに来るのです。
しかし、この「お迎え」というのは非常に厳しい一面があります。それは、来ない場合がある、ということです。悪事をはたらいていたら来てくれないのです。来るか来ないか、臨終の時になってみないと分からないのです。
お迎え、ということで一つ思い出したことがあります。
我が家の3人息子は西福寺の近くの幼稚園(今はこども園になっています)に通わせていただきました。午後2時が降園時間で、午後1時50分頃から保護者がそれぞれの子どものお迎えに行くことになっていました。ある日、私がお迎えに行ったのですが、何かの用事があって降園時間の2時ギリギリくらいになってしまいました。もうほとんどの園児が帰ってしまって3人の園児がポツンと残っていました。そのうちの一人の女の子が、私の顔を見るや否や「ギャアアアアアア!」と大声をあげて泣くのです。「そんなに私の顔が気持ち悪かったのかな…」と途方に暮れていると、担任の先生が涙の理由をこそっと教えてくださいました。
その子は自分のお母さんの到着を今か今かと待っていたんだそうです。けれど待てども待てども一向にお母さんは来ず、周りの子たちが次々とお家の人と手を繋いで帰っていく。そしてとうとう3人になったところで私が登場したもんだからついに堪えきれなくなって号泣してしまった、ということだったのです。
大人からすれば、「お母さん、待ってたら絶対来るよ」くらいのことですが、当の本人からすると、「もし来なかったらどうしよう。一人で生きていけない!」というほどの大問題だったのでしょう。
「お迎え」というのはそういうものではありませんか。お迎えが目の前に現れるまでは安心できないのです。しかも臨終来迎は、来るか来ないか、臨終の時になってみないと分からず、最後の最後まで気が抜けないのです。
しかし親鸞聖人は言います。
「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。」
(お念仏いただく人は、お迎えを待つ必要がありません。お念仏いただくその時にお浄土に往くことも定まるのです。)
阿弥陀さまは、どんな命であっても決して見捨てない仏さまです。善人であろうと悪人であろうと、一切の分け隔てをしない仏さまです。
その阿弥陀さまは、いつ、どこで、どうなってしまうか分からない私の命が、いつ、どこで、どうなっても大丈夫なように「南無阿弥陀仏」という言葉になって今もうすでに私の所へ来てくださっているのです。命終えるその時にお迎えに来るのではなくて、今も、今までも、これからも、いつだって私の側から離れないのが阿弥陀さまです。
たとえば、ローソクの灯は点火した瞬間に必ず消えることが決まっています。そして、それはいつ消えるか分からないのです。ひとたび風が吹けば消えてしまいます。けれど、いつ、どこで、どうなっても大丈夫なように、ローソクはいつだって受け皿のど真ん中にあるのです。
私たちの命も、生まれた瞬間に必ず死ぬことが決まっています。それは今日かも明日かも分からない…。けれど、その私の命がいつどこでどうなっても大丈夫なように阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という言葉になって今もうすでにここにいらっしゃるのです。
いつどこで、どうなっても大丈夫なように、私の命はいつだって阿弥陀さまの手のど真ん中にいた、そのことを知らされるのが南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
麻子も阿弥陀さまの手のど真ん中を生きたし、私も阿弥陀さまの手のど真ん中を生きている。生きていても死んでいても、南無阿弥陀仏の一声の中にいつも一緒なのです。
合 掌
(2026年 2月 5日 発行)

