『あの日見た虹』 読む法話 日常茶飯寺 vol.70
先日、ご門徒のお宅へお参りに向かう道中、空に虹がかかっているのを見つけました。とても鮮やかな七色の虹で、信号待ちをしている間ずっと見惚れていました。私は今41歳で年齢的には立派なオジサンですが、この年になっても虹を見つけるとなんだかちょっと得をした気分になります。
虹は空気中に十分な水分があって、そこに太陽光が差し込まないと発生しません。その条件を満たさないと虹は発生しないことを考えると、とても稀なことです。けれど、その場に「私がいた」ということもすごいことではないかと思うのです。その日、そのご門徒のお宅にお参りに行く予定がなければ私はあの道を通らなかったし、そもそも20代の頃の私がお坊さんではない進路を選択していたら、今私は西福寺にいないし、あの虹を見ることもなかったのです。
私たちは日々、様々な人や事柄に出会ったり別れたりを繰り返しながら生きていますが、その一つひとつの出会いに想いを馳せてみれば、その裏側には私には想像も及ばないほどの条件があるのです。そのどれか一つでも欠けていたなら、その出会いはなかった。それを仏教では「縁起」という言葉で表現します。何事も縁によって起きているのです。「縁起が良い」とか「縁起が悪い」というのは私たちの勝手なものさしであって、「無駄なものは一つもない」と教えてくださるのが「縁起」なのです。
先日、西福寺前坊守、徳浄院釋明彩 尾野明美の三回忌のご法事をお勤めさせていただきました。法事の準備から当日まで、明美さんとの色々な思い出を思い返していました。その一つを紹介させてください。
私が西福寺に養子として迎えていただいたのは、東日本大震災から4か月後、2011年の夏のことでした。そしてその2年後に結婚をし、現坊守である愛似里が西福寺に来てくれました。私たちが結婚して初めての報恩講法要を迎えた時の話です。
私にとっては西福寺で2度目の報恩講で、愛似里にとっては初めての報恩講でした。ましてや愛似里は、「報恩講」という言葉すら聞いたこともないし、「親鸞」という名前も歴史の授業で聞いたことある、という状態で迎えた報恩講でした。つまり私も愛似里も、ひよっこ中のひよっこ。何を準備すればいいのか、何がどこにあるのか、本当に何も分からない状態でした。当時の住職であった了以さんが一つひとつ丁寧に教えてくれるのですが、私も愛似里も「ソレハ…ナンデスカ?」の連続で、「西の押し入れから◯◯取ってきて」と言われても「ニシハ…ドッチデスカ?」という、ほぼ宇宙人のような存在でした。
明美さんはもともと身体が丈夫な方ではなく、報恩講の少し前から風邪をひいていました。けれど、報恩講の準備でみんなバタバタしていたので気を遣ったのでしょう。「しんどい」と言わず、ずっと我慢していました。けれど、その我慢の限界が報恩講法要の二日目の朝にやってきてしまったのです。
「あかん!もう死ぬ!」
そう言って、明美さんは明け方に救急車で病院へと運ばれていきました。
了以さんも、「智行さん、愛似里さん。後は頼んだ!」と言い残し、付き添いで病院に行ってしまいました。(明美さんは風邪をこじらせて、肺炎になっていました。少し入院しましたが、すぐ元気になって帰ってきてくれました。)
「嘘でしょ!?」という言葉が何度私の頭の中をこだましたか分かりません。
その日の門徒総代の皆さんがとても不安そうな顔をしておられたことが今も忘れられません。「どうしましょ!」「どうしましょ!」とオロオロする私と愛似里とは違って門徒総代の皆さんが本当に頑張ってくださり、なんとか報恩講を無事勤めることができ、ほっと胸を撫で下ろしました。
そんなことがあってから、私と愛似里は行事ごとにお寺のあちこちの写真を撮りました。何を準備して、どのように進行したのかを事細かに記録し、ファイルを作成しました。いつ何時「後は頼んだ」と言われても、これまでと同じように行事が勤められるように、西福寺マニュアルを作ったのです。ピンクのバインダーに綴じたので、私たちはそれを「ピンクのファイル」と呼びました。
永代経法要、別永代経法要、布教大会、そして報恩講法要。それだけではなく、お盆やお彼岸、お正月の準備など、そのファイルを見れば一目瞭然。私たちは事あるごとにピンクのファイルを引っ張り出し行事を勤めてきました。
しかし、年々ピンクのファイルを開くことは少なくなっていき、今はもうすっかり開くことはなくなりました。ピンクのファイルに頼らずに法要・行事が勤められるようになったのです。
役目を終えたピンクのファイルですが、だからと言って捨てるようなことはせず、今も大切に保管しています。「これは置いておこう」なんて夫婦の間で言葉を交わしたことは一度もないのに。
なぜならそれは、明美さんの「あかん!もう死ぬ騒動」が私たちを育ててくれた、私たちの原点だからです。そこには、了以さんと明美さんと未熟だった私たちが同じ方向を向いて駆け抜けた思い出があるのです。「あかん!もう死ぬ騒動」も決して無駄なことではなかったのです。
私たちが明美さんを「お母さん」と呼べたのは、ほんの10年ほどのことでした。その10年は虹のようなものだったなぁと思うのです。
虹は、時間が経てば消えることが決まっています。そして私たちも、出会った瞬間にいつか別れることが決まっているのです。
偶然か必然か、同じ時代、同じ国に生まれ、それぞれがそれぞれの人生を歩んできた中で、あの瞬間、あの場所でその人生が交差する。その裏側にどれほどの条件が重なっていたのでしょう。もはや計り知ることなど到底できません。
もちろんその10年は楽しいことばかりではなく、苦悩もあったし涙もありました。それでも限りある時間の中で同じ方向を向いて精一杯生きたあの日々は一つの大きな虹を織りなしていたと思うのです。
きっと私も愛似里も、あのピンクのファイルにその虹を見たのです。
ご門徒のお宅でのお参りを終えて外に出て空を見上げてみると、そこにはもう虹はありませんでした。少しの寂しさはあったけれど、悲しくはありませんでした。なぜならそれはきっと、いつかまた会えると知っているからだと思うのです。
合 掌
(2025年10月3日 発行)