『善も悪も分からん』 読む法話 日常茶飯寺 vol.75

 私が若い頃(今もピッチピチの41歳ですが)、衝撃を受けた親鸞聖人の言葉があります。

それは歎異抄にある「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という言葉です。これは「何が善で何が悪なのか、そのどちらも私は分からない」という意味です。

 私は小・中・高と道徳教育を受けてきた中で「善悪の判断ができるようになりなさい」ということを一貫して言われてきました。文部科学省のホームページにも道徳教育について「善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身につけることが重要」と書いてあります。そして誰しも過去の経験や失敗や後悔から学び、大人として、社会の一員として自分自身の善悪の物差しを培っていくのでしょう。

しかし、親鸞聖人は「善も悪も分からん」とおっしゃるのです。

そのことを、私の実体験から味わってみたいと思います。

 今から20年ほど前の話です。私は住職になるための10日間の研修を受けました。その研修は京都の本願寺西山別院というお寺で行われ、その10日間は全く自由がありません。外出禁止、携帯電話没収。宿舎の中にはテレビも新聞もなく、朝から晩までずっと仏教のことや作法のことなどを学びます。完全に社会と断絶された場所で過密スケジュールの生活をしていると、一緒に研修を受けた仲間たちとの絆も自然と深まっていきます。10日間の研修を終えた私たちは、それぞれの地元に帰る前に京都駅前で食事をしました。素晴らしい仲間に出会えた喜びと、抑圧された生活から自由の身となった解放感と、そして久しぶりに飲んだお酒の酔いも相まってとても楽しく嬉しい食事会になりました。

当時、私は京都に下宿をしておりましたので、帰りはバス代をケチって下宿先までトボトボ歩いて帰りました。

すると、私が歩いている道の前方、街頭に照らされたアスファルトの真ん中に何やら黒いものが落ちているのが見えました。

「犬のウンチでも落ちてるんかな」と思いながら近づいてみると、なんとそれは二つ折りの黒い革製の財布だったのです。周りを見渡しても誰もいませんでしたので、私はその財布を拾い、近くの警察署に届けました。

対応してくださった若い警察官の方が「中身を確認しなければいけませんので、立ち会ってください」と言うので立ち会いました。

財布の中にはカード類やお札など…。幸い免許証なども入っていたので持ち主がはっきりと分かりました。小銭は入ってなくて、お札が6万5千円入っていました。

「大金が入っていますねぇ…」「今頃お困りでしょうねぇ…」
なんて言いながら一通り出し終え、財布の細いところも見ていくと、なんと財布のあちらこちらから小さく折り畳まれた1万円札が何枚も出てきたのです。「あ、ここにもありました!」「あ、こっちにも!」と出てくる出てくる…最終的に総額12万5千円になりました。

そして最後に警察官の方は言いました。「財布の持ち主の方があなたにお礼がしたいと申し出があった場合、あなたはお礼を受け取る権利があります。申し出があったらあなたの連絡先を教えてもいいですか?」

しかし私は、10日間の研修を終えて自由の身となった解放感でめちゃくちゃいい気分(足取りはスキップ)でしたので、「お礼は結構です」と答え、踵を返して颯爽と警察署を後にしたのでした。

 この私の行動は、道徳的に見れば善なのかもしれません。(自分で書いているところがイヤらしいですが)

しかし20年近く経った今、ひとつ気付いたことがあります。それは、「12万5千円」という数字が今も頭にこびりついて離れない、ということです。「これはいつか法話の題材になるかもしれないぞ!メモメモ…」なんてメモをしたわけでもないのに、12万5千円という数字を忘れないのです。


これは私の意識の奥深くで、私の心は明らかに12万5千円に執着しています。12万5千円入った財布を自分は届けたんだ。お礼だって辞退した。善いことをしたんだぞ、という思いが心の奥深くに根付いているのです。

しかし、それだけではないのかもしれません。12万5千円という数字を忘れさせないのは「あの12万5千円を自分のものにできたんじゃないか」という執着ではないかとも思うのです。


頭では、「持ち主が困っているだろうからすぐ届けないと!」と考えたり、「もし自分が財布を落としていたらこうしてもらったら嬉しいな」ということを考えて行動します。けれども、自分の意識すら及ばない自分の心の奥底(深層心理というのでしょうか)には、善悪なんてどうでもよくて、ただ快楽を求め物欲を満たすことを貪る私がいるのです。自分さえよければそれでいい、というおぞましい私が紛れもなく存在するのです。

親鸞聖人はこうもおっしゃいました。

「無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(煩悩にまみれた私は貪り、怒り、腹立ち、嫉み妬む心ばかりで命を終えるその時まで変わることはありません)

 私たちは道徳を学ぶことによって、一応の善悪の基準を身につけてきました。けれども親鸞聖人が見ているのは、そのもっともっと奥深く、自分の意識すらも及ばないほどの心の奥底にある自分の本性。それは善も悪も分からぬ、ただ「愚」としか言いようのない自分の姿だったのです。

 「親鸞聖人は生涯、鏡の前に座った人だった」と言われます。

「愚」としか言いようのないおぞましい自分の姿から決して目を逸らさず、生涯凝視し続けたのが親鸞聖人だったと讃えられるのです。誰もが目を逸らすような恐ろしい自分の姿を、なぜ親鸞聖人は凝視することができたのか。それは、自分に向けられたもう一つの眼差しに出遇ったからではないかと思うのです。

「どんなことがあっても、どんなに愚者であっても、決してあなたを見捨てない」という阿弥陀さまの眼差し。あまりに頼もしいその眼差しに包まれて、「ただ本当のことが知りたい。自分とは一体何者なのか…」と自分の心の深淵、奥へ奥へと踏み込んでいかれたのが親鸞聖人ではなかったかと思うのです。

そこで親鸞聖人が見たものは、どこまでいっても愚かでしかない自分。そしてその自分を抱きしめて決して離さない阿弥陀さまだったのです。

 さて、3月6日・7日と永代経法要が勤まりますので、皆さまぜひご都合つけてお参りください。


合 掌

(2026年 3月 2日 発行)