『名残り尽きぬ露の世よ』 読む法話 日常茶飯寺 vol.72
早いもので、師走を迎えました。一年を振り返ると、今年お浄土に参られた方々のことを想わずにはいられません。お世話になった方々がその一生を終え、お浄土に参られる後ろ姿を合掌して見送らせていただきました。
この世は無常の世。明日があるかは誰にも分からんぞ、と聞いていながら、何も分かっちゃいない自分だったとつくづく思います。
江戸時代後期に小林一茶という俳人がおられました。松尾芭蕉、与謝蕪村に並んで江戸三大俳人のお一人といわれるとても有名な方ですので、ご存知の方も多いと思います。
一茶は52歳の時にきくという28歳の女性と結婚し4人の子を授かりますが、その4人ともが幼くして亡くなり、妻のきくも37歳で亡くなるという壮絶な悲しみを背負って生きた人でした。一茶が世の無常を痛切に感じながら詠んだと言われる俳句があります。
「露の世は 露の世ながら さりながら」
露の世とは命の儚さを言い表した言葉でしょう。
朝方に露が生まれ、ツーと流れて、やがて地面に落ちてはじけていく。命というのはそういう儚いものだ。そんなこと分かっている。分かっているんだけど…
最後の「さりながら」の一言に込められた一茶の悲しみを思うと、込み上げるものがあります。
生まれた者は必ず死ぬ。そんなことは当たり前だし誰だってそんなこと知ってるんです。だけどそこに割り切れぬ思いがある…そういう私たちのことを仏教は有情(心ある者)と言い表しています。
阿弥陀さまはそういう割り切れぬ思いを抱えて涙に暮れる私たちに対して「浄土があるぞ」と叫ばれたのです。
阿弥陀経というお経には、ここから西の彼方、10万億の仏さま方の国を過ぎたところに阿弥陀さまの国があって、その名を「極楽」というんだ、と説かれます。
阿弥陀さまの浄土は極楽とか極楽浄土とも言われます。仏教で「楽」とは幸せのことを意味します。極楽とは楽の極まり、本当の幸せの境地なのでしょう。けれど親鸞聖人は極楽という表現はあまり用いられませんでした。
それが何故なのかは分かりませんが、極楽という言葉が非常に誤解を生みやすいからなのかもしれません。
「極楽ってどんな世界だと思いますか?」と聞いてみたなら、答える人によって全く違う極楽像になるでしょう。
好きなだけお酒が飲める世界、とか、他人からチヤホヤされる世界、とか、毎日ご馳走食べて温泉に浸かり放題、とか。
現代は極楽というより、「天国」という言葉の方が一般的かもしれません。どちらにせよ、自分にとって都合の良い世界を表現するのに便利な言葉に陥りがちです。
では極楽とは何なのか。阿弥陀経にはこのように説かれます。
「苦しみがなく、ただ楽だけを受ける世界だから極楽と名付ける」と。
この短い言葉に、深い意味が込められてあります。
極楽は、苦しみがなくただ楽だけがある…。では、今私たちが生きている世界はというと、苦しみがある世界ですよね。私たち一人ひとり、あらゆる苦しみを抱えながらきっと誰もが幸せを願って生きているでしょう。
例えば、お金に困っている人はお金に不自由のない生活を願うでしょうし、身体の不調に悩む人は健康な身体を願うでしょう。
しかし私たちが思い描く幸せは、根っこに必ず苦しみがあります。いま現在お金に困っているという苦しみの延長線上にお金に不自由のない生活を願い、いま現在身体の不調に悩んでいる苦しみの延長線上に健康な身体を願うのでしょう。
悲しいかな、私たちは苦しみの延長線上にしか幸せを見出すことが出来ないのです。私たちはどこまでいっても結局苦しみの延長線上に立っていて、苦しみから離れることが出来ないのです。
思い描いた幸せが実現したとして、その一瞬は飛び跳ねて喜ぶかもしれない。けれどそこからまた新たな苦しみが始まっていくでしょう。
そうやって私たち一人ひとり、永遠のような過去からただ幸せを求めて、苦と楽の狭間を「アレ?おかしいな…こんなはずじゃなかったのにな」と、ずっとぐるぐるぐるぐるさまよい続けてきたのです。苦しみの円環から一歩たりとも出ることが出来ず、その先に本当の幸せがあると信じて。
しかし極楽とは、苦しみがなくただ楽だけがある世界なのです。苦しみの延長線上ではなく、苦しみそのものが無い、大いなる安心の世界なのです。私たちの命が永遠の過去から渇望してやまなかった本当の幸せの境地こそが極楽浄土なのでしょう。
けれど、けれど…。
そう聞いても「極楽浄土に生まれたい」と願わないのが私です。自分が思い描いた幸せを貪らずにはいられない私です。そこに本当の幸せはないぞ、と聞いても「そんなわけあるかい」と跳ね除け、自分を過信する私です。私を前にして、腹など括れぬ私です。
だから阿弥陀さまは私に向けて「必ず極楽浄土に生まれさせる」と誓ってくださったのです。
歎異抄というお書物に親鸞聖人のこんなお言葉が記されています。
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり(どんなに名残惜しく思っても、その縁も尽き、力を失って命を終える時には極楽浄土へ参るのですよ。)」
親鸞聖人は「それでええやんか」とおっしゃってくださっているのだと思います。
「お世話になったこの世界にしがみついて、死にたくない、ずっとここにいたいと涙流して、鼻水垂らして…それでええやんか。そのあんたを阿弥陀さまは『必ず浄土に生まれさせる』と誓ってくださったんやから。ぜーんぶ阿弥陀さまがなさることや。ほんまに、頼もしい仏さまやな。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、優しく柔らかな微笑みを浮かべて。
今年も皆さまにお支えいただき、日常茶飯寺を毎月発行することができました。有り難うございました。皆さまと一緒に仏法を聴かせていただいた有り難い一年でございました。どうか一年の終わりと始まりをお念仏とともにお過ごしください。
合 掌
(2025年12月8日 発行)

