『愚禿の名告り』 読む法話 日常茶飯寺 vol.71

 今月は西福寺で報恩講法要があります。報恩講は浄土真宗門徒の間で「ほんこさん」と呼ばれ親しまれてきました。報恩講とは簡単に言うと、親鸞聖人の法事です。

ということで、今号は親鸞聖人の人生を大きく左右した「承元の法難」と呼ばれる大事件について書きたいと思います。

 親鸞聖人は9歳から29歳までの20年間、比叡山で自身が救われる道を求めて命がけで勉学・修行に励まれました。しかし、20年の求道の先にあった現実はあまりに残酷なもので、仏にもなれず聖者にもなれず、何者にもなれない自分にただ絶望するのみだったのです。絶望の末に比叡山を降りた親鸞聖人は藁にもすがる思いで法然聖人(浄土宗の開祖)の元を訪ね、「どんな者であっても必ず救う」という阿弥陀さまの教えに出遇われたのです。何者にもなる必要のないお念仏の教えこそ自分が唯一救われる道であった、と心の底からお喜びになられました。

 親鸞聖人は法然聖人を生涯の師と仰がれましたが、法然聖人と共に過ごしたのはたったの6年でした。

 時は1207年、親鸞聖人35歳の頃です。国家をあげて念仏を弾圧するという呼ばれる大事件が起こりました。これを「承元の法難」といいます。この事件によって法然聖人と引き裂かれ、結果的に二人は二度と会うことはありませんでした。

当時の日本仏教は、京都の比叡山延暦寺と奈良の興福寺を中心に栄えていました。そんな中、法然聖人が「念仏ひとつで救われる」という専修念仏の教えを説かれ、瞬く間に民衆に広がっていきました。勉強や修行に明け暮れる延暦寺や興福寺は法然教団に強く反発し、朝廷に対し「専修(せんじゅ)念仏を禁止すべき」と申し出ました。

それに対し朝廷は「まぁまぁ、そう言わんと仲良くしなはれ」と中立の立場を保っていました。しかし、一大スキャンダルによって状況は一変してしまいます。

ある時、法然聖人の弟子である「安楽」と「住蓮」という二人のお坊さんが法要を開いたのです。この安楽と住蓮はどちらも、めちゃくちゃ男前でお経が上手で(まるで西福寺の住職みたいですね!)ファンが大勢いたそうです。そのイケメン僧侶二人が揃って法要をするらしい、ということが京都の一大ニュースになりました。たまたまその法要が開かれる時は、朝廷の中心人物であった後鳥羽上皇が出張で京都を留守にしていました。
後鳥羽上皇に仕える女官の2人が「後鳥羽上皇おらへん!ラッキー!」と、こっそり内緒で法要にお参りし、感激のあまりその場で出家なさいます。それだけでなく、そのイケメン僧侶を女官ばかりが暮らす男子禁制の建物に連れ帰り、夜通し説法をさせ、挙げ句の果てにそこに泊まらせたのです。

この一大スキャンダルが後鳥羽上皇に伝わり、激怒した上皇は安楽と住蓮、その他法要に関わった2名、合計4名を死罪(死刑)に処します。そして法然聖人、親鸞聖人を含む8名を、流罪(京都を追放)の刑に処します。

この時代、死罪など100年以上も行われていませんでした。そんな中、正当な裁判が行われたとは思えない異例のスピードで死罪と流罪の判決が下されたのです。後鳥羽上皇の暴君的な判決としか思えません。

法然聖人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ追放されました。


実はこの時、親鸞聖人はまだ「親鸞」という名前ではありませんでした。法然聖人から授かった「善信房綽空」という名前だったのです。しかし、流罪の罪を科せられる時に、朝廷から僧籍を剥奪されます。つまり「あなたはもうお坊さんクビです」と僧侶名簿から抹消され、善信房綽空と名告ることを禁じられます。かわりに「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗名を与えられ越後の地へと流されるのですが、親鸞聖人は一度も藤井善信とは名告りませんでした。そしてこの頃から「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名告られたのです。

私は、この愚禿釋親鸞という名告りに、親鸞聖人の強いこだわりを感じずにはいられません。

なぜなら、流罪の4年後、親鸞聖人は罪を赦されているのです。京都に戻ってもいいし、僧侶名簿から抹消されたとはいえ、もう一度善信房綽空と名告ってもいいのです。けれども親鸞聖人は生涯にわたって「愚禿釋親鸞」の名告りを貫き通されたのです。

「釋」はお釋迦さまから、「親」はインドの高僧、天親菩薩から、「鸞」は中国の高僧、曇鸞大師からいただかれています。
今号で注目したいのは、名前の頭につけられた「愚禿」の二文字です。「愚」はそのまま、愚かという意味です。そして「禿」という字は「かむろ」とも読み、「伸びっぱなしで何の手入れもしていない髪」を意味するそうです。その伸びっぱなしの髪を綺麗に剃ってしまえば僧侶スタイルです。剃らずに、当時流行の髪型にすれば、俗人(一般人)スタイルです。けれども、あえてそのどちらもしない、という状態が「禿」です。

親鸞聖人は晩年、この名についてこんな言葉を述べておられます。

「僧にあらず、俗にあらず、このゆえに禿の字をもって姓とす(私は僧侶でもなければ俗人でもありません。ですから禿の字を姓にしたのです)」

つまり「愚禿」の名告りは「私親鸞は、僧侶でもなく俗人でもなく、何者でもないただ一人の愚か者です」という表明なのです。

僧籍を剥奪され、俗名を与えられた親鸞聖人は「自分は何者なのか」と阿弥陀さまに問い続けられたに違いありません。


阿弥陀さまは国家公認の僧侶であれば優先し、俗人は後回しにする、そんな仏さまでしょうか?そうではなくて、「どんな命であっても、必ず救う」とお立ち上がりになったのが阿弥陀さまです。

阿弥陀さまにとって、私が何者であっても、何者でなくても、そんなことに一切用事はないのです。阿弥陀さまが見ているのは私たち一人ひとりの命そのものでしょう。そして阿弥陀さまはその命の一つひとつを決して比べないのです。

阿弥陀さまを前にして、私たちは何者である必要もないのです。


 私は現代に「あなたは何者ですか?」と問われ続けているような息苦しさを感じています。みんな自分が何者であるかを誇示し合って、まるで何者かにならないといけない、自分が自分でいてはいけないような強迫観念に駆られる雰囲気があるような気がします。

しかし、何者かになろうとする営みはもしかすると、終わることのない自己否定なのかもしれません。

「愚禿釋親鸞」という名告りは、阿弥陀さまによる絶対的な自己肯定の上で「何者である必要もなかった。私が私でいていいんだ」という大きな安心と喜びを含んだ名告りです。
 私はこの現代においても、「愚禿」の名告りこそが最も輝いているような気がするのです。


合 掌

(2025年11月3日 発行)