『熨斗のついた南無阿弥陀仏』 読む法話 日常茶飯寺 vol.67
皆さんは、「みそきん」というカップ麺をご存知でしょうか。
「みそきん」とは、子どもから大人まで絶大な人気を誇るユーチューバー(動画配信者)であるヒカキンさんが手掛けたカップ麺です。みそきんは2023年の5月に発売されましたが、発売されてから2年が経った今も店頭に並んでは即完売が続き、全く手に入らない状況が続いています。みそきんのホームページによると、これまでに1600万食が完売し、次の再販に向けて製造中だそうです。
我が家の子どもたちも2年前のみそきん発売時には胸躍らせ、コンビニやスーパーに行って探しましたが、2年経った今もまだ手に入らないので、すっかり諦めモードに入っています。
そんな中、先日ご法事であるお宅にお邪魔した時のことです。
そのお宅には小学校5年生の「ゆうせい君」という男の子がいて、ゆうせい君はいつも私がお参りに伺った際にはお茶やお菓子を出してくれます。そして今夢中になっている遊びや学校のこと、友達のことなど、色々とお話をしてくれるので、いつしか私もゆうせい君に会うのが楽しみになっています。
そのご法事の日もまず最初にゆうせい君がお茶を出してくれました。そして興奮気味に
「あんな、この前みそきん買えたんや!」と話してくれたのです。
私も思わず興奮して「ええぇ!すごいな!どこで買えたん!?」と聞くと、
「近所のコンビニに朝早くに行ってみたら並んどったんや!」と教えてくれました。
「そりゃええこと聞いた!ごえんさんも明日早起きして近所のコンビニに行ってみるわ」
そんな会話をして、ご法事のお勤めをしました。
ご法事も無事に終わり、ホッとしながら玄関で雪駄を履いていると、ゆうせい君が
「ごえんさん、これあげる」と言って、なんとみそきんを一つ差し出してくれたのです。
私はびっくりして「ええ!そんな貴重なもの、もらえへんわ!ゆうせい君が食べて」と言いましたが、「いや、ええんや。僕もう食べたから」と言って差し出してくれるのです。
「本当にいいの?じゃあ今夜、ごえんさんの家族みんなで感謝していただくね。有り難う」
その夜、家族でみそきんをいただきました。味はもちろん美味しかったのですが、それより何より嬉しさで胸がいっぱいになりました。
発売から2年経った今も即完売で手に入らないみそきん、きっとゆうせい君自身もやっとの思いで手に入れたであろうみそきんを、「あげる」と人に差し出すことのできるゆうせい君の優しさに私は心の底から感動したのです。と同時に、恥ずかしい気持ちにもなりました。
「はたして、自分が小学校5年生の時にそんなことができただろうか。いや、待てよ。すっかりおじさんになった今だってそんなことできるか危ういぞ。」と、私の心の中に、大事なもの、貴重なものを内緒にして独り占めしかねない自分がいることを恥じたことでした。
みそきんをインターネットで調べてみると、通販サイトには在庫があるようです。しかし、定価の4〜5倍ほどの値段で売られているのです。転売というやつですね。人に「どうぞ」と差し出すどころか、値段を釣り上げてお金儲けをしようと企む大人もたくさんいるのです。
まだ手に入れていない人を前にした時に「どうぞ」と差し出せる優しさ、これは阿弥陀さまのお心に通じるものがあります。
浄土真宗の先人たちは「南無阿弥陀仏には熨斗(のし)がついておるぞ」と味わってこられた、とある本で読んだことがあります。
熨斗や熨斗紙がついているものと言えば、他人への贈り物ですよね。贈り主は、相手に何を贈ったら喜んでもらえるだろうかと悩みます。そして品物が決まったらお金を払いますが、そのお金を出すのも当然、贈り主です。そして綺麗に包装された品物に熨斗紙をつけてお世話になった大切な方に届けられます。
そう、熨斗紙をつける品というのは、最初から他人に渡すことが決まっているのです。あれにしようか、これにしようかと散々悩むことも、お金を出すことも、最初から自分のためではなく他人のためです。これを先人たちは、「南無阿弥陀仏とおんなじだ」と味わってこられたのです。
私たちは誰しも、自分自身が幸せになりたいし、大切な人を幸せにしたいと思って生きているでしょう。仏教では、幸せになるためには善根功徳を積まなければならない、と説きます。善いことをしたら善い結果があるのだから、どんどん善を積みましょう、と。
けれど、現実はどうでしょうか。自分の善意に従って行動したり言葉を発するんだけれど、それがかえって相手に迷惑になってしまったり、時には怒らせてしまったり、傷つけてしまったり…。しまいには「私はあなたのためを思って言っているんだ」と相手の気持ちを差し置いて自分の善意の押し売りをしたり。世間の揉め事の多くが、善意と善意の衝突によって起きているのではありませんか。悲しいかな、私の善意が本当に善なのかどうか、私には分からないのです。根本的に何が善で何が悪かの見分けがつかない、そういう不完全で愚かな存在が私たちなのでしょう。
しかし、その愚かな私の存在が阿弥陀仏という仏さまを立ち上がらせたのです。
阿弥陀さまは私の命を前にして涙を流し、「あなたが善根功徳を積めないのなら、私が積みます。そうじゃなきゃあなたが救われないじゃないか」と、兆載永劫という永遠のような時間をかけて善根功徳を積まれたといいます。そして果てしないご苦労の末に積み上げたその功徳のすべてを「南無阿弥陀仏」の一言に詰め込んで私にくださったのです。
阿弥陀さまが永遠のような時間をかけて積んだ善根功徳は、最初から私に与えるためのものだったのです。
そのことを先人たちは「南無阿弥陀仏には熨斗がついておるぞ」と喜ばれたのでした。
私が今、その熨斗がついた南無阿弥陀仏を受け取ったということは、愚かな私が私のままで喜びに転じられるということです。
なぜなら、南無阿弥陀仏は愚かな私のために用意されたものだからです。もし私が愚かじゃなくて何か中途半端な存在だったなら阿弥陀さまが立ち上がることはなかったし、南無阿弥陀仏もなかったのです。善人になる必要もない。立派な自分である必要も自分を偽る必要もない。愚か者であろうと何者であろうと、「そのまま救う」という阿弥陀さまの喚び声が南無阿弥陀仏なのです。そっとお念仏を申す中で「愚かな私も無駄じゃなかった」と愚かな私自身に喜びと頷きが与えられていくのです。
そして、どこへ行ってもみそきんを手に入れられなかったあの2年があったからこそゆうせい君の大きな優しさに出遇えたのだと思うと「あの2年も無駄じゃなかった」とも思うのです。