『他力本願のこころ』 読む法話 日常茶飯寺 vol.66

 皆さんは「他力本願(たりきほんがん)」という言葉を一度は聞いたことがあるでしょうか。

何を隠そう、この他力本願という言葉は浄土真宗の専売特許とも言える、浄土真宗の特徴をズバリ言い表した言葉なのです。けれども、世間一般に使われる「他力本願」は本来の意味とは違った意味で誤用されていることはご存知でしょうか?

他力本願と言えば、自分の目標を達成するために自分が努力するのではなく、他人まかせにする、という意味で使われていることが多いと思います。お坊さんをしていて「他力本願なんて甘いこと言うとったらあかん。自力本願でいかな!」と言われることも時々あります。けれど、親鸞聖人がおっしゃった他力本願のお心はそういうことではない、ということを今号では書きたいと思います。

親鸞聖人はハッキリと明言されています。

「他力というは如来の本願力(ほんがんりき)なり」


他力っていうのはね、阿弥陀さまのことを言ってるんですよ。決して自分以外の誰かという意味ではないですからね、とおっしゃっているのです。

「他力」は阿弥陀さまのはたらきのことで、「本願」は阿弥陀さまの願いのことなのです。他力も本願もどちらも阿弥陀さまのことを言っている言葉です。自分の願いを他人に委ねるというのは全く意味が違うのです。

 本願とは、阿弥陀さまの一番大切な願いです。それは「たとえどんな命であっても、一人も漏らすことなく必ず救う仏になります。もし一人の命でも漏らすようなことがあったら、私は仏にはなりません」という願いです。

この大宇宙、永遠の過去から未来永劫に至るまで、数えきれないほどの命がある中で、「まぁ一人くらい漏れてもしゃーないか」ではないのです。「たった一人でも救われない命があるなら自分も一緒に救われない」とおっしゃるのです。

それは逆に言えば、数えきれない命の中で最も救いようのない命を救うことができたなら、全ての命を救うことができる、ということでもあるでしょう。


 「最も救いようのない命」と聞いた時、誰のことを思い浮かべるでしょうか。私は歴史的な大犯罪者なんかを思い浮かべました。
がしかし!その私の心が大・大・大問題なんです。
その私の心には、「あの大犯罪者は私よりも劣っている」という根性があるのです。

自分は善の立場に立って悪を見下ろしている、そういう傲慢さにすら気付くことのできない自分がいるのです。案外、歴史的な大犯罪者のことを深く学べば学ぶほど、自分と何ら変わりのない普通の人だ、という印象を受けることが多々あります。そして、私がその立場に置かれたなら同じ罪を犯さないとも言い切れない、何とも後味の悪い気持ちになるのです。

「あの大犯罪者は私よりも劣っている」という見方は大きな間違いです。今置かれている環境のおかげで私が罪を犯さずに済んでいるだけのことなのです。誰しも、置かれた環境によっていつ何時罪を犯しかねない、そういう不安定な命を生きているのです。

そういう視点に立ったとき、「最も救いようのない命」とは誰のことを指すのでしょうか。

親鸞聖人は

「この大宇宙の中で最も救いようのない命とは、私のことでございました」
とおっしゃったのです。

誰かを見下して自分は大丈夫だと思い込んでいる、そういう傲慢な人間こそ、仏さまから差し伸べられた手を握らないのです。だから救いようがないのです。

阿弥陀さまは、その救いようのない私の現実を見抜いて涙を流され、「あなたを必ず救う仏になる」と願われたのです。

しかし、願うだけでは誰一人救うことはできません。願うことなら誰にでもできます。肝心なのは願い通りに実行することです。

 仏教は功徳を積むということが大前提ですが、自分は大丈夫だと思い込んでいる人間は功徳を積もうと思いません。積む必要性を見出せないのです。そして、浄土も天国も知らず、この娑婆(しゃば)世界しか知らないから、できるだけ長くこの世界にしがみついていたいと思って、そもそも救われたいとすら思えないのが私たちではないですか。

功徳を積もうともせず、浄土を願うことすらもしない私を前にして阿弥陀さまは「あなたが功徳を積めないのなら、その功徳のすべてを私が積みます」と、永遠のような時間をかけて血の滲むようなご苦労の末に、私たち一人ひとりが積まねばならなかった功徳を全部積んでくださったのです。

そしてその功徳のすべてを「南無阿弥陀仏」という一言に託して、私たちに与えてくださっている、これを本願のはたらき、本願力というのです。今私たちが「南無阿弥陀仏」の一言に出遇っているのは、紛れもなく本願力が私に届いているからなのです。

この本願力のことを親鸞聖人は他力と表現されました。つまり他力というのは、阿弥陀さまが血の滲むようなご苦労をして積んだ功徳をもって、阿弥陀さま自身が救われるのではなくて、その功徳を他に与えてを救う、という意味なのです。

他力本願とは、阿弥陀さまが私一人を想ってくださる大きな、あまりに大きな親心を表現した言葉なのです。

また、歎異抄(たんにしょう)というお書物の中に親鸞聖人のこんなお言葉が記されています。

「弥陀(みだ)の本願には老少善悪(ろうしょうぜんまく)の人をえらばれず」

阿弥陀さまの本願は、老人も若者も、善人も悪人も、どんな命も選ばず、比べず、分け隔てをしないのです、とおっしゃる。これが有り難いなぁと思うのです。なぜなら、私たちが生きている世界は選び、比べ、分け隔てることが溢れた世界だからです。


 元女子レスリング選手の吉田沙保里さんというと皆さんもよくご存知の方だと思います。霊長類最強女子の異名を持ち、レスリング個人で世界大会16連覇、206連勝という戦績からも、凄まじい選手であったことが見て取れますね。なんと吉田さんは15年もの間、世界の頂点の座に君臨し続けたそうです。


 そんな吉田さんがオリンピック4連覇をかけて挑んだリオデジャネイロオリンピックのことを覚えていらっしゃるでしょうか。

吉田さんは当然のごとく勝ち進み、決勝戦までコマを進めました。ところが決勝でアメリカの選手にまさかの逆転負けを喫したのです。あの時の泣き崩れる吉田さんの姿がとても印象に残っています。試合後のインタビューでも吉田さんはボロボロ涙をこぼしながら「金メダルを取らないといけなかったのに…ごめんなさい。申し訳ありません」と何度も何度も謝っておられました。宿舎に戻ってからも、チームの後輩に何度も泣いて謝ったそうです。泣いても泣いても、涙が止まらなかったそうです。

 その夜、吉田さんは現地に応援に来ていたお母さんに会いました。申し訳ない思いでお母さんに銀メダルを見せると、お母さんから思いもよらぬ言葉が返ってきました。


「うわあ!すごいきれいな色やなあ!」


誰よりも近くで見守ってくれたお母さんのこの言葉に出遇って、吉田さんの涙は止まったそうです。

まさにお母さんは吉田さんに対して、選ばず、比べず、分け隔てをしなかったのです。金メダルでも銀メダルでも、手ぶらで帰ってきても、必ず抱きしめてくれる、そういう温もりに出遇うこと、それはもしかしたら金メダルよりも価値のあるものなのかもしれません。

 選ばず、比べず、分け隔てをせず、どんな私であっても必ず救うと抱きしめてくださる温もり、それを他力本願というのです。

合 掌

(2025年6月2日 発行)