『誰に頼まれなくとも』 読む法話 日常茶飯寺 vol.63
西福寺の隣には公園があって、私は子どもたちと一緒によく公園に遊びに行きます。たまたま公園に居合わせた男の子も女の子も、いつの間にやら仲良くなって一緒に遊び始めます。しまいには「おっちゃん、友達になろう」と私に言ってくれる子もいて、私も嬉しくなって一緒に遊びます。鬼ごっこに夢中になるあまり足を捻挫してしばらく正座ができなくなったこともありました。
きっと「友達になろう」と言われて嫌な気持ちになる人はいないでしょう。なぜなら、その言葉の裏側には「あなたのことが好きです」「あなたのことが大切です」という思いが込められているからです。
無量寿経というお経の中に「為諸庶類 作不請之友 荷負群生 為之重担(もろもろの庶類(しょるい)のために不請(ふしょう)の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす。)」という言葉があります。誰に頼まれずとも阿弥陀さまは私の友でいてくださる。苦しみ、悲しみの絶えない私の命をそのまま背負い、重担としてくださる、というのです。
阿弥陀さまはどこか高いところに立って私を見下ろしているのではなくて、私と同じ目線に立って敬意をもって「友」と呼んでくださるのです。そして私の命を背負い「重担」とする、この「重担」とはどういうことかというと、ヒョイっと私の命を担ぐのではないということです。
軽いものを持ったら、その存在を忘れてしまうことがあります。先日、我が家の次男了円(小学二年生)が朝学校へ行く時間になっているのに家の中をウロウロウロウロしています。私が玄関から「何しとるん、もう行かな遅れるで」と言うと「分かっとるけど、帽子がないんや!」と学校の帽子を探している様子でした。ところがその後すぐに外に出てきて照れくさそうに言いました。「帽子、かぶっとったわ」
これは帽子の重量が軽いから忘れたというよりも、次男の中で「軽い存在」だから忘れたんだと思います。大切なものであればあるほど、その存在を忘れるはずがありません。
ですから「重担」とは、阿弥陀さまが私のことを何よりも大切な存在として想っていてくださるということなのです。たくさんの命をいっぺんにヒョイっと背負うのではなくて、私の命ひとつを担いで、たとえ肩が砕けようとも絶対に落とさない、とおっしゃってくださるのです。
「友」という言葉を考える時、一つ思い出した話がありました。ここで紹介させていただきます。
ベトナムの田舎の村に、ある孤児院がありました。その頃ベトナムでは内戦が起こっていて、孤児院も爆撃に巻き込まれ、多くの負傷者が出ました。その中でも8歳の女の子の出血がひどく最も危険な状態でした。
一刻を争う状況ですが内戦状態の田舎の村では輸血をするために必要な設備も血液もありません。急いで無線で助けを求めて、しばらくするとアメリカ海軍の医師と看護師数名が駆けつけてくれました。けれど、肝心の血液がありません。
すぐに村の人たちを集め、輸血するのに血液が必要であることを伝えるのですが、ベトナムの田舎で暮らす彼らには英語が通じないのです。「英語が話せる人はいませんか」と何度も呼びかけましたが反応はありませんでした。
やむを得ずわずかに知っているベトナムの言葉にジェスチャーを交えながら、8歳の彼女は一刻を争う状態であること、すぐに輸血が必要であること、輸血に使用する血液は誰かに提供してもらわないといけないことなどを、を必死になって伝えました。
長い沈黙が続きました。伝わったから沈黙なのか、伝わっていないから沈黙なのか、もはや分かりません。
…
……
………
長い沈黙を破って、一本の細い腕が恐る恐るあがりました。
手をあげたのはヘングという名前の少年でした。すぐに調べてみると、少女の血液型とヘングの血液型が一致したのです。
急いで輸血の準備をして、重傷を負って苦しむ少女の横にヘングを寝かせ、輸血用の管を取り付けました。ヘングは黙って天井を見つめていました。
準備が整い、さぁ輸血を開始しよう!と取りかかると、突然ヘングが両手で顔を覆ってしゃくりあげるように泣き出しました。医師は驚き、「どこか痛いのかい?」と尋ねますが、ヘングは「どこも痛くない」と言うのです。
しばらくするとヘングも落ち着きを取り戻し、さぁ輸血を再開するよ、と取りかかると、またしゃくりあげるように大粒の涙をボロボロこぼしながら泣くのです。医師は再び「痛い?」と聞きますが、ヘングはまたもや否定します。それからしばらくしてもヘングは落ち着かず、しくしくと静かに泣いているのです。
「何かがおかしい…」
と困っているところに、隣の村のベトナム人看護師が応援に駆けつけてくれました。
医師は作業を中断し、
「一体ヘングの身に何が起きているのか聞いてくれないか」と看護師に頼みました。
看護師はヘングと2人でしばらく話をしました。
そして話し終えた看護師が医師にこう言いました。
「ヘングには輸血の説明が十分に伝わっていなかったようです。彼は自分の血液を全て彼女にあげるから、輸血をしたら自分は死ぬんだ、と思っていたそうです。」
その場にいた医師や看護師は皆驚きました。ヘングは死を覚悟して少女に輸血をすると手をあげていたのです。医師は思わず尋ねました。
「どうして君は彼女に輸血をしようと決心したんだい?」
ヘングは医師の目をまっすぐに見つめて言いました。
「彼女は僕の友達だからだよ」
私が彼の立場だったら、恥ずかしながらきっと誰かが手をあげるのを待ったかもしれません。ヘング少年の友達を想う心と勇気には深く感動させられます。ヘング少年にとって「友達」とは、命をかけてでも守りたい存在なのでしょう。
阿弥陀さまは果てしない時間をかけて血の滲むようなご苦労を重ね、徳を積んだ仏さまです。けれど、その積み上げた徳を「全部あなたにあげる」と、この私に差し出してくださった、それを私たちは「南無阿弥陀仏」といただくのです。南無阿弥陀仏のたった一言に阿弥陀さまが積んだ徳の全てを詰め込んで私にくださるのです。
それはもともと私が積まなければならなかった徳です。けれど徳の「と」の字すら知らない愚か者がこの私なのです。その愚かな私を背負い、「大丈夫。あなたが徳が積めないのなら、その徳私に積ませてね」と誰に頼まれたわけでもなく、私1人を救いたい一心で全ての徳を積んでくださったのです。
まさに阿弥陀さまにとって命をかけてでも守りたい存在がこの私だとおっしゃってくださるのです。
阿弥陀さまは本堂やお仏壇の真ん中の高いところに立っておられますが、本当は私の隣に立って、私に向かって合掌しておられるのだと、私は密かに思うのです。
今月は永代経法要があります。広島県から私の恩師である福間先生がお越しくださいます。ぜひともご都合つけてお参りください。
合 掌
(2025年3月3日 発行)