『鏡に映る凡夫の姿』 読む法話 日常茶飯寺 vol.62

 この前お正月だったような気がしますが、早2月を迎えました。今号は「凡夫(ぼんぶ)」ということについて書きたいと思います。凡夫という言葉は仏教においてもとても重要な言葉で、ご法話の中にもよく登場しますので覚えておくとよりご法話も楽しめると思います。

凡夫とは聖者に対する言葉で、煩悩を抱えた人のことを意味します。

 日本の仏教史において中心人物とも言える聖徳太子は、「私は決して聖者ではないし、彼は決して愚か者ではない。みな共に凡夫(ただひと)なのです」と、凡夫を「ただひと」と読まれています。聖徳太子は推古天皇の甥にあたり、推古天皇より摂政を任命され天皇に代わって政治を執り行った人です。きっと民衆から聖者として崇められたであろう聖徳太子ですが、そんな地位や権力に酔いしれることなく「みな共に凡夫」とおっしゃったことは、当時の人々に大きな衝撃を与えたことでしょう。

聖徳太子は仏教者でしたから、そこには紛れもなく仏教の精神が通っています。仏教に出遇うということは、自分自身に出遇うということでもあるのです。

「私たち現代人は自分自身を見失ってはいないだろうか」

以前ある本で読んだフレーズです。

「あなたは良い人だ」と他人から言われれば、「私って良い人なんだな」と有頂天になり、「あなたは悪い人だ」と言われれば「そんなことはない!だって…」と自分の中であれこれ言い訳をする。他人からの評価を自分の都合で取捨選択して、自分自身を過大評価したり過小評価し、結局自分自身を見失っていくのが私たちではありませんか。

特に現代人は他人からの評価に流されがちな気がします。インターネット上に散乱する誰か個人を攻撃する誹謗中傷の言葉によって尊い命が奪われてしまうという恐ろしい事態が起きている時代です。正義感が人を助けるのではなくて、正義感が人を死に追いやるというあまりに大きな矛盾が生じている時代です。

私たち一人ひとりが今、その正義感を、そして自分自身を問わねばならないと思います。

 親鸞聖人や法然聖人(浄土宗の開祖)が多大なる影響を受けた中国の善導大師というお坊さんが「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」という言葉を残しています。

これは「お経というのは鏡のようだ」という意味です。

鏡というのはありのままの姿を映すものです。鏡がなければどんなに頑張っても自分の姿を見ることはできません。

まさに善導大師は、お経は自分の本当の姿を映し出す鏡のようなものだ、とおっしゃったのです。私の本当の姿を映し出してくれるのは、決して他人の評価ではなくお経なのです。

 親鸞聖人は「生涯鏡の前に座った人だった」と言われます。私は親鸞聖人ほど自分を問題にし、妥協を決して許さず自分を問い続けた人を他に知りません。親鸞聖人の人間観は、仏教徒であってもなくても一聴の価値があると思います。親鸞聖人は自分自身に向けて、また「凡夫」ということについてこんな言葉を残しておられます。

「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、…」

無明というのは、真っ暗闇の中にいながら暗闇であることに気付いていない状態です。それは「自分は大丈夫だ」と過信しているということでしょう。

 私が坊守(妻)と結婚する前、まだお付き合いして間もない頃に車でデートに出かけました。まだお互いのことをよく知らなかったので、坊守が私に「特技は何ですか?」と聞きました。坊守が方向音痴であることを知っていた私は「うーん、道に迷わないことかな。土地勘には自信があるんや。あのな、道に迷わへんコツは…」なんて格好つけて話していました。

ところが、私が運転する車はいつまで経っても目的地に辿り着かないのです。さっき通った道を何度も通っているうちに坊守が不安な表情を浮かべて「ナビに頼ろう」と提案しますが、私は「大丈夫大丈夫!迷ってないから。うん、迷ってない」とまた同じ道をぐるぐるぐるぐる…結局最後はナビに頼って、すぐに目的地に到着しました。最初からナビに頼ればいいものを、謎の自信を頼りにして迷っている現実を認めない私は、坊守の目にはとても滑稽な人に映ったに違いありません。よくそんな男と結婚してくれたものです。有り難う、坊守。

まさに迷いながら迷っている自覚がない、これを無明と言うのです。

「私は世間知らずで…」なんて建前では言いながら、本音は「自分はそれなりに世の中の道理をわきまえているつもりだ」と思っているのが私たちではないですか。だからこそそれぞれの正義を他人に振りかざすのでしょう。

 親鸞聖人は続いて、「煩悩が私たちの身に満ちみちていて、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、…」

とおっしゃいます。

私たちは、熱心に宗教を信仰したら自分が変わっていくと思っているところはないでしょうか。

「お寺に参るようになって腹が立たなくなった」とか「性格が丸くなった」とか、何かそういう変化を期待するところはありませんか。ダイエットをしたら体重が減った、という結果に期待するように、信仰した先の結果に期待するというのは当然のことのように思います。

けれど、「変わらない」というのが親鸞聖人の結論です。むしろ「変われる」と過信していることを無明と言うのです。

もちろん、生活習慣など自分の意識が及ぶ範囲内のことは変えていくこともできるでしょう。でも、親鸞聖人がおっしゃっているのは自分の意識の及ばない根本的な部分、いわゆる煩悩のことです。

怒りや腹立ちやそねみやねたみの心は命を終えるその時まで消えない、とおっしゃるのです。

この言葉を聞いて「親鸞聖人ってネガティブな人だなぁ」と若い頃は思っていましたが、そうではありません。自分への期待や過信とは真逆の、誰もが目を背けてしまうような愚かな自分の姿を凝視し続けた親鸞聖人の姿勢は鬼気迫るものがあります。しかしそれは、本当の自分自身に還っていくという、誰にとっても大切なことなのかもしれません。

 阿弥陀さまは「一つの命も見捨てない」とお立ち上がりくださった仏さまです。なぜ阿弥陀さまが「一つの命も見捨てない」と願わねばならなかったか。それは、見捨てられてきた命があったからです。真実からは縁遠い無明の凡夫がいたからです。

親鸞聖人はお経を鏡とする中で、「一つの命も見捨てない」という阿弥陀さまの願いの中に自分の姿を発見したのです。しかしそれは、もうすでに阿弥陀さまにしっかりと抱かれている凡夫の姿だったのです。

合 掌

(2025年2月5日 発行)