『永遠に生きる言葉』 読む法話 日常茶飯寺 vol.59

 以前読んだ本の中に「言葉には命がある」ということが書いてありました。

例えば、「ちょっとそこのお醤油取ってくれる?」という言葉は生きて相手に届きますが、「はいどうぞ」とお醤油を取ってもらった時に、その言葉は命を終える、ということでした。

日本人は古来から「言霊」と言って、言葉には不思議な力が宿ると信じてきましたし、確かに私たちは言葉によって一喜一憂しながら生きています。

言葉一つ一つにはきちんと意味があって、辞書にも記載されているけれど、その言葉の意味の通りに相手に伝わるかと言えば、そうではないでしょう。「ごえんさん、最近貫禄が出てきたねぇ」と言われると、「住職として様になってきた」という意味かもしれませんし、「ちょっと太ったんじゃない?」という意味かもしれません。もしかしたら他の意味があるかもしれません。

話し手と聞き手、その背後にあるその人の人生やその場の状況などによって言葉が持つ意味というのは変化していきます。

 時間とともに言葉の意味が変化していくということもあります。

幼い頃に言われた一言が、その当時は意味が分からなかったけれど、大人になってやっと分かった、ということもあるでしょう。これはその言葉が生き続けたということです。

私の祖父は亡くなる数日前、枕元に私を呼び寄せて、か細い声で言いました。

「ええか、歯は大事にしろよ」

つい「最後の遺言がそれなん!?」と臨終を迎えようとする祖父にツッコミそうになりましたが、きっとあの言葉も私の中で生き続けて、私が年老いて歯に悩み始めた頃に意味を発揮するのだと思います。

言葉には命がある

先日、10月19日(土)に開催されたフリフリフェスティバルを終えて、そのことを痛感しています。

 以前、大谷翔平さんがドジャースと共同で1億4000万円を能登に寄付する、というニュースが報道されました。その桁外れな金額に、どこか自分の力など何の意味もない、と思ってしまう私がいます。けれど、それはきっと大きな誤りです。

能登、そしてチャリティの問題は私の問題なのです。私がどう向き合うかが問題であって、大谷翔平さんがどうしたかは直接私には関係のないことなのです。金額を比べたら確かに大きな違いがあるでしょう。でも、私の精一杯も、子どもの精一杯も、大谷翔平さんの精一杯も、「精一杯」という点でまったく同じことです。

一人ひとりが「自分にできる精一杯」ということを考えるべきだと思うのです。

 フリフリフェスティバルではフードもフリーマーケットも音楽も講演も整体もヨガも全てに値段がありませんでした。来場者が一つ一つに自分で値段を決め、募金箱に投入し、それはそのまま能登への募金になります。大人は大人なりの精一杯を、子どもは子どもなりの精一杯を、それぞれが「今自分にできる精一杯」を考えてくれたらいいなと思って企画しました。

まさに、被災地能登に対して自分がどうあるか、その点において「F R E E」なのです。

その「F R E E」という言葉の元に、ここには書き切れないほど本当に多くの人の精一杯が西福寺に集まっていました。それぞれがそれぞれのできることをする。それは十人十色、一人ひとりの精一杯はまったく違う色なのだけれど、そこには優劣などなく、否定されることも比べられることもない。それぞれの色の輝きを互いに認め合い、讃え合う。あの日、あの場所でしか織りなすことのできなかったグラデーションが確かに西福寺にありました。そして私の存在も、あの場にいた一人ひとりの存在も、そのグラデーションを織りなす一つの色として必要な存在であったのです。

「私なんていてもいなくてもいい」じゃなくて、「私がここにいる意味があるんだ」と実感させてくれたあの場所にあったのは大きな温もりであり、安心でありました。

 「FREE」という言葉に、「能登で被災された方々にどう向き合うのか」と私が問われていました。それは、能登の問題でもありながら自分の問題でもありました。

能登の問題を前にして、素通りをする自分、立ち止まって精一杯を考える自分、そのどちらに立つかによってフリフリフェスティバルの見え方、感じ方が全く別のものになったと思います。

きっとこれは人生の縮図で、自分の人生においても、様々な問題に対して無関心を貫くのか、立ち止まって精一杯を考えるのか、その立ち位置によって人生の見え方が全く変わってくるのだと思います。

様々な諸問題を前に「素通りをしようとする自分」がいなくなったわけではありません。フリフリフェスティバルをきっかけに、そういう自分自身に対して見て見ぬふりができなくなったように思います。それは紛れもなく、「F R E E」という言葉が今もなお私の中で生きているからだと思います。

 この数ヶ月の間に私の心の中で「F R E E」という言葉の意味がどんどん広がり、重みが増していくのを痛感してきました。そんな中で、以前読んだ本に書いてあった「言葉には命がある」ということを思い出したのです。

 阿弥陀さまは「どうすれば永遠に、全ての命を一人も漏らすことなく救えるだろうか」と途方もない時間悩みに悩み抜いた末に、ただ一つの方法を選び取られた、それが「言葉になろう」ということでした。

全ての命を救い終えるまで決してその役目を終えることのない、永遠に生き続ける言葉になって私たちの命をずっと喚び続けてくださっている、その言葉が「南無阿弥陀仏」です。

言葉には命がある、そのことを阿弥陀さまはとっくに見抜いておられたのだと思うと、感嘆の息が漏れるような思いがします。

 私たちの人生はきっとお金儲けのためにあるんじゃないし、健康で長生きするためにあるのでもないはずです。精一杯生きて、「この人生色々あったけど、これでよかった」と頷いて死んでゆく。そういう命の底からの喜びに出遇うためだと私は思います。

「どんな命であっても、必ず救う」とお立ち上がりくださった阿弥陀さまを前にして、どれだけお金を稼いだとか、どれだけのことを成し遂げたとか、どれだけ長く生きたとか、勝ち組とか、負け組とか、そんな結果が大事なのではなくて、自分の命に対して私が精一杯を尽くしたか、それが大事なのだと思います。

では自分の命に対してできる精一杯とは何か。それは仏法を聞くことだよ、と親鸞聖人は私たちに教えてくださったのです。阿弥陀さまに出遇うということは自分自身に出遇うということでもあります。私とは何か、私の命はどこへ向かってゆくのか。一度しかない人生、聞かねばならないことがあるんだ、と親鸞聖人は90年のご生涯をかけて私たちの命が真に救われていく道を示してくださったのです。

 26日、27日と西福寺で報恩講法要がありますので、一緒に仏法を聞かせていただきましょう。お一人でも多くの方のお参りをお待ちしております。

合 掌

(2024年11月1日 発行)

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