『浄土に照らされた人生』 読む法話 日常茶飯寺 vol.56
今から15年前、私は京都の西本願寺前にある伝道院という施設で100日間寮生活をしながら法話の研鑽をさせていただきました。寮は6畳の部屋に二人で生活します。私の相方は広島県出身の島津恵航さんという私と同い年の人でした。「同じ釜の飯を食う」という言葉の通り、100日間苦楽を共にしました。ある時は原稿が書けなくて一緒に徹夜をしたことも、今では良い思い出です。
先日、その島津さんのご法話がインターネットで配信されていたのでお聴聞(法話を聞くことを聴聞(ちょうもん)と言います)させていただきました。久しぶりに島津さんに電話をして、日常茶飯寺に掲載させてほしいとお願いをしましたら快く承諾してくださいましたので今号は島津さんのご法話をご紹介させていただきます。
死んだらしまい、死んだら無になる、死んだらゴミになる。そんな言葉をたまに聞くことがあります。しかし、いざ自分が死んでいく時、また大切な人が自分の目の前で命を終えようとする時、そのように囁いていけるでしょうか。もっと、確かなもの、安心できるものを心の拠り所として生きていくこと、そこに人生の豊さが開かれていくのではないかと思います。
阿弥陀経(あみだきょう)というお経があります。この阿弥陀経は弟子の舎利弗(しゃりほつ)に対して説かれました。舎利弗はお釈迦さまより年上で、かなりの高齢になった舎利弗は自分の死期を悟り、お釈迦さまに暇(いとま)乞いをします。「お釈迦さま、私はあと数ヶ月ほどでいのちを終えていくでしょう。その最期を、母が私を生んでくれた故郷で迎えたいのです。お釈迦さまのお側を離れることをお許しください」
それから数日後、お釈迦さまが舎利弗に対して説かれたのが阿弥陀経であったと言われています。
その阿弥陀経の中に「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉が出てきます。「倶」とは「ともに」という意味です。「ともに」と言うと、「共」の字もありますが、「共」に比べて「倶」はもっと広い関係の中での「ともに」です。そして「会」は会うということですが、ばったり会うのではなくて、約束されて必ず会うのです。「一処」とは「一つ同じところ」という意味です。お釈迦さまは舎利弗に対して、そしていつか必ず死にゆく全てのいのちに対して、温かい言葉で「また会おう」とおっしゃったのです。死んだらしまい、死んだら無になる、死んだらゴミになる。そう吐き捨てた人生が、温かい光に照らされて温かい人生へと転じられていくべきなんだろうと思います。
最近はコロナによる規制もなくなりましたから、色々なことが元通りになりつつあります。そんな中で先日、久しぶりに先日一般葬にお参りせてもらいました。これまた久しぶりに友人代表の弔辞を聞かせてもらいました。故人は満76歳でした。葬儀の中で友人代表弔辞の時間になりました。弔辞を読まれたのは同級生の方ですから、気取ったりせずにフランクに語り始められました。
「チョウちゃん、ちょっと早かったなぁ。
我々が同期会を始めて20年以上の月日が過ぎ去ったね。毎年いろんなところに場所を決めて旅行にたくさん行ってきた。数ある旅行の中で1番思い出深いのは、ある寒い冬の旅行。ある旅館にお世話になった晩のこと。みんなで温泉につかって、そして夕食もお酒もたんまりとよばれて、今しがた参加者の15、6人でその大広間で雑魚寝をしようかとみんなで一息ついていた時に、誰とは言わないけれどその中の1人が枕投げをはじめて。そこから久しぶりに童心にかえって70を越えたえぇじいさんが汗をかきながら、小一時間枕投げに熱中したね。数ある旅行の中で、あの瞬間がわしは1番心に残っとるよ。
チョウちゃんはこれから葬式を終え、火葬場に行って、肉体は荼毘に付されて消えてなくなっていく。でも…『さようなら』とは決して言わんよ。だって、また会えるから。
チョウちゃんは一足先にさとりの世界、浄土へ参ったけれど、同級生一同、我々もいただいたいのちを精一杯生き抜いて、チョウちゃんの待つそちらの世界へ必ず生まれて往くから、ちょっとの間、ほんのちょっとでいい、向こうで待っておいてね」
と弔辞を締めくくってくださいました。人間の小賢しい計らいを超えた、温かな世界を弔辞で語ってくださったなぁと数日経った今、改めてそう感じるんです。
死んだらしまい、死んだら無になる、そう吐き捨てた冷たい人生が、死は永遠の別れではなく、一つのところでまた必ず会えるいのちであったと知らされる中で温かな人生へと転じられていくのです。
大好きだったあの人も、大嫌いだったあの人も、今は浄土で温かい仏さまとなって、私の帰りを待っていてくださる。その浄土に照らされた人生を私は今、生きているのです。
と、島津さんは優しく丁寧な語り口でそうお話しくださいました。
70過ぎたおじさんたちが枕投げに熱中している光景が目に浮かんできて、なぜかジーンとしてしまったのは私だけでしょうか。
私たちは誰も死んだことがないのだから、死が何なのか、死の先に何があるかなんて誰にも分かりません。ですから、死んだらしまい、死んだら無になる、そう思って生きる人生も決して否定することはできません。しかし、死んだらしまい、死んだら無になると腹を括って生きていくなら、人生そのものも虚しいものでしかないでしょう。
お釈迦さまは生が何であるか、死が何であるかを完全に悟ったお方です。そのお釈迦さまが「また一つのところで、かならず会えるんだよ」と、あまりに深く、温かい言葉を私たちに残してくださったのです。2500年という長い仏教の歴史の中で、このお釈迦さまのお言葉を支えとしてどれほどの人が悲しみの底から立ち上がってきたでしょうか。
弔辞を読まれた同級生の方もその一人だと思います。枕投げのエピソードからも、故人とどれほど親密な仲であったかは容易に想像できます。友人の死を前にして悲しくないはずがありません。けれど悲しみの中で紡ぎ出された「『さようなら』とは決して言わんよ。だって、また会えるから」というお言葉に、何とも言えない温かさ、豊かさを感じずにはいられません。
私自身も、もし仏教に出遇っていなかったら、死んだらしまい、死んだら無になる、と自分の殻に閉じこもっていたことでしょう。けれど、この人生は浄土に照らされた人生であったと知らされていく中に、人生においてかけがえのない豊かさ、有り難さが恵まれていくのだと思います。
今月、8月はお盆や終戦記念日があり、日本人にとって最も「いのち」を考える月と言っても過言ではないと思います。死んで終わるいのちでも、消えて無くなっていくいのちでもない。またかならず会えるいのちです。浄土におられる大切な方を想いながら、どうぞお念仏の日々をお過ごしください。
合 掌
(2024年8月1日 発行)