『迷ってもいいのよ』 読む法話 日常茶飯寺 vol.43
暑い季節になりました。汗っかきの私は、滝のように汗をかきながら過ごしております。(それでも体重は減らない)
夏の風物詩の一つに、寒天を使った和菓子があります。美味しいだけじゃなくて、美しい見た目からも涼を感じさせられる、もはや芸術作品ですよね。私は、この寒天の和菓子を見ると、あるご法事のことを思い出します。
もう随分前にお参りさせていただいたご法事でのことです。
その日もうだるような暑さでした。仏間とその隣の部屋の二間を開け放して、たくさんのご親戚がお参りをされていました。その中にのぞみちゃん(仮名)という5歳くらいの女の子がいました。
読経の途中、休憩の時間になると、お家の方が私やお参りの皆さんにお茶を配ってくださいました。バタバタなさっている中で、のぞみちゃんのひいおばあちゃんが大きなお盆を持って部屋に入ってこられました。そのお盆には、皆さんに食べていただく色とりどりの寒天の和菓子がぎっしりと並べられてあって、それは宝石が散りばめられたような見事な壮観でした。ひいおばあちゃんはそのお盆を持って、まずのぞみちゃんの所に行きました。そして和菓子を見せながら
「のぞみちゃんから、好きなの一つ選んでいいよ」
と言いました。
ずらりと並んだ和菓子を見たのぞみちゃんは、
「わぁーきれい!宝石みたい!」と目を輝かせます。
「どれにしようかなぁ。この水色のもきれいやけど、こっちの緑色のもきれいやなぁ。いや、こっちのもええなぁ…」
どれか一つだけを選ぶとなると、その一つがなかなか決められないのです。
決められずにいるのぞみちゃんをしばらく隣で見ていたお父さんお母さんが、とうとう痺れを切らしてのぞみちゃんに言います。
「のぞみ、早くしなさい。のぞみが選ばないと、他の皆さんがお菓子を食べれないでしょう」
「のぞみ、早くしないと休憩の時間が終わっちゃうよ」
「のぞみ、どれでもええやんか。食べてもたら一緒や。ほら、これにしよう」
これは、私がその立場であってもきっと同じように言っていただろうなと思います。保護者として、他の皆さんに迷惑にならないように気を遣われたのです。
けれども、のぞみちゃんの顔は、しゅんしゅんしゅんしゅん…と音が聞こえてきそうなほど笑顔が失われていき、目の輝きも失われていくのが分かりました。
のぞみちゃんはうつむいて、黙り込んでしまいました。どれか一つを選ぶことすらできなくなってしまったのです。
少し離れていたところでお茶をいただいていた私は、どうすることもできずに「あららら、これはどうなってしまうんだろう…」と心配することしかできませんでした。
すると、お盆を持っていたひいおばあちゃんが、のぞみちゃんの顔を覗き込んで、にっこり笑って言いました。
「のぞみちゃん、迷ってもいいのよ」
そう言われたのぞみちゃんは、ふっと顔を上げてひいおばあちゃんの顔を見つめました。時間にすればたったの5秒ほどだったと思いますが、なにせ私にとっては緊迫した状況でしたので、その5秒が長く長く感じられました。
じーーーっとひいおばあちゃんの顔を見つめるのぞみちゃん。ひいおばあちゃんも、なんとも言えない柔和な笑顔でのぞみちゃんを見つめます。
そしたらある瞬間、のぞみちゃんの顔にパッと笑顔が咲いたのです。そして目を輝かせながら「どれにしようかなぁ〜」と、また和菓子を選び出しました。そしてすぐに「のぞみ、これにする!」と自分で一つを選ぶことができたのです。
何もできずに、ただハラハラドキドキしていた私も「あぁよかった」とホッと胸を撫で下ろしたことでした。
あれからもう10年以上経つでしょうか。今も寒天の和菓子を見るとあの時ののぞみちゃんとひいおばあちゃんのやりとりを思い出すのです。
ひいおばあちゃんの「迷ってもいいのよ」というたったの一言に、のぞみちゃんは何を感じ取ったのでしょうか。
子どもって純粋で、大人が嘘をついているか、真剣に話を聞いてくれているか、ということを感覚的に見破ってしまう能力を持っています。「迷ってもいいのよ」という言葉がうわべだけの言葉なのか、それともひいおばあちゃんの本心から出た言葉なのか。きっとあの5秒ほどの間は、それを確かめ合う時間だったんじゃないかと思うのです。
言葉を超えた命と命の対話、と言うと大袈裟なように聞こえるかもしれませんが、でもそうとしか言いようのない、あの瞬間あの二人にしか分かり得ない世界があったのだと思われてならないのです。
そしてのぞみちゃんは、「迷ってもいいのよ」という言葉と柔和な笑顔の、その奥にあるひいおばあちゃんの心を受け取ったのでしょう。
「選ぶのに時間がかかって法事の時間が遅れても、ひいおばあちゃんが全部責任を取るから大丈夫よ。」
「選ぶのに時間がかかってお父さんお母さんが怒っても、ひいおばあちゃんが守ってあげるよ。」
「のぞみちゃんが上手に一つを選べなくても、ひいおばあちゃんはのぞみちゃんが大好きなのよ。」
それはのぞみちゃんにとって大きな大きな安心であったことは言うまでもありません。
「選びなさい」と言われると、力んでしまってなかなか選べなかったけれど、「迷ってもいいのよ」という大きな安心をいただいたら、「これにする」と選べたのです。
もしかしたらこれは私たち一人ひとりの人生にも言えることなのかもしれません。
かの有名なシェイクスピアは言いました。
「人生は選択の連続である」と。
私たちは1日を過ごす中でも1000回以上の選択をしているそうです。そして誰しも生きていく中で、人生を左右するような大きな選択を迫られることも幾度となくあります。どちらか一方を選ぶということは、もう片方を捨てるということでもあり、とても勇気のいることです。
確かに、人生設計において一つ一つの選択は大きな意味を持っているでしょう。けれど、生まれて生きて死んでいく私たち一人ひとりの命にとって本当に大切なことは、いかなる選択によっても左右されるようなものではない、と絶えず私を喚び続け、教えてくださっているのが阿弥陀如来という仏さまです。
「どんなあなたであっても、必ず救う」と、阿弥陀さまが私のことを喚び続けてくださる声が南無阿弥陀仏のお念仏です。それは、選択の連続の人生を歩む私の命をまるごと「迷ってもいいのよ」と柔和なお心で包み込んでくださっているということでしょう。お念仏と共に安心して迷い、安心して一歩を踏み出していく。その先の結果がどうであっても、決して揺らぐことのない大きな安心の中でどんな結果をも引き受けていくことができる。お念仏とはそんな力のあるものです。
その大きな安心をいただいた上で人生を踏み出していくことの大切さ、豊かさを、あの時のぞみちゃんは身をもって教えてくださったのだと思うのです。
合 掌
(2023年7月8日 発行)