『善因楽果悪因苦果の落とし穴』 読む法話 日常茶飯寺 vol.32

 先日、安倍元総理が銃撃され、亡くなられるというたいへんショックな事件が起こってしまいました。

ここに、慎んで哀悼の意を表します。

人の命がこんなにも簡単に奪われてしまうのかと、今もなお動揺しております。

 事件から月日が経ち、いろいろなことが明らかになってきました。事件の背景には、容疑者の母親の旧統一教会への狂信的な信仰があったとされています。

私たちも、浄土真宗という宗教を信仰する一門徒です。阿弥陀さまの教えを、お念仏を拠り所とする身として、私たちの信仰は大丈夫だと言えるのか。浄土真宗は長い歴史があるから、というのは根拠にはならないと思います。

改めて私たちは自分自身の「信」ということを問わねばならないような気がしています。

親鸞聖人は「信心」ということに非常にデリケートに言及されています。まず、信心には二種類あると言われます。一つは自力の信心、もう一つは他力の信心です。

自力の信心とは何かというと、お経には信罪福心(しんざいふくしん)という言葉で説かれています。これは「自分の欲望を満足させるために仏教を信仰する」という信仰のあり方です。例えば、お金が儲かって欲しい、とか病気が治ってほしい、とか、受験に合格したい、とか、そういう自分の欲望を叶えるために仏教を信仰することを信罪福心といいます。

親鸞聖人はこの信罪福心は問題がある、と指摘されています。

この信罪福心は、善因楽果(ぜんいんらっか)、悪因苦果(あくいんくか)(善いことをしたら善い結果があり、悪いことをしたら悪い結果がある)という自業自得の考え方が根っこにあります。

善い結果を得るために、善を積まなければならない、というのは何となくよく聞くようなことですよね。

けれどもここに大きな落とし穴があって、この善因楽果、悪因苦果という考えのもと、ひたすら善を積んでいったけれど、思っていた結果が得られない、となるとどうですか。善が足りない、もっと善を積まねばならない、ということになるのです。そもそもこれまで必死で積み上げてきたものは善と呼べるものだったのか、という問いも起こってくるでしょう。そうなってしまうと、ますます善を貪らねばならない。これが大きな落とし穴であると思います。

 これは、善因楽果、悪因苦果という自業自得の考え方そのものが間違っているのではありません。スイカの種を植えたのに、採れたのはトマトだった!なんてことはあり得ません。スイカの種からはスイカの実が、トマトの種からはトマトの実が採れるように、善いことをしたら善い結果があり、悪いことをしたら悪い結果があるのは当然のことです。

 では何が問題なのかというと、親鸞聖人は「私たちは何が善で何が悪かが分からないことが、そもそもの問題じゃないか」とおっしゃるのです。

何が善で何が悪かも分からない私たちが、「これこそが善ですよ!」と言われ、「その善を積んでいった先には必ず望みが叶いますよ!」という甘い言葉に惑わされて進んでいった先にあるのは幸せなんかじゃなく、破滅であったということは十分にあり得ます。もしかするとあの容疑者の母親は、1億円を越える献金行為こそ善だと信じて疑わなかったのかもしれません。

 けれど、これは決して他人事ではないと思います。

もっとお金があったらいいな、病気が治ったらいいな、といった何かしらの願いを持っている人であれば誰でも、こういう甘い言葉に惑わされる可能性を持っています。

 今一度私たちは、自分や家族を守るためにも「私たち人間は何が善で何が悪かを見極める能力を持ち合わせていない」ということを自覚しておくことも大切なことだと思います。真の善悪は悟りを開いた仏さまにしか分からないのです。

自分の欲望を満足させようとする信罪福心、自力の信心という信仰のあり方は結局、苦悩を助長しているに過ぎないと親鸞聖人は800年も前から明言しておられたのです。

 それでは、他力の信心とは何か。親鸞聖人は他力の信心のことを「真実信心」ともおっしゃっています。それはつまり、自力の信心は真実ではないということです。あるべき信心とは他力の信心である、と。

その他力の信心とは、自分で起こす心じゃないんです。何が善で何が悪かが分からない私が起こす心は当然、真実とは言えません。

他力の信心とはいただくものだと言われます。それは「聞くこと」だと親鸞聖人は明らかにされました。何を聞くのかというと、名号「南無阿弥陀仏」を聞くこと。それがそのまま信心になる、というのです。

その南無阿弥陀仏とは何かというと、「どんなことがあっても、あなたを必ず救う」という阿弥陀さまのはたらきです。その阿弥陀さまのはたらきを私自身が受け取る、それが私が称える南無阿弥陀仏のお念仏です。今もうすでに、この私を救うというはたらきが南無阿弥陀仏という言葉となって私にも届けられていた、と聞かせていただくこと、それがそのまま信心になるというのです。

善因楽果、悪因苦果という考え方を元に信仰するならば、「どうしたら私が救われるのか」ということを聞いていかねばなりません。けれども、何が善で何が悪かが分からぬ私には「どうしたら」の先に答えは無いのです。

浄土真宗はここがはっきり違います。

「どうしたら私が救われるのか」と聞いていくのではなくて、「阿弥陀さまが私を救う」ということをただ聞かせていただくのです。こんなに頼もしいことがどこにあるでしょうか。

その南無阿弥陀仏を聞いて、私が信じるとか信じないとか、どれだけ理解しているとか、よく分からないなぁ、とか、私の心がどうかなんてことは一切差し挟まる余地はありません。どんな私であっても、ただ南無阿弥陀仏を聞いて称えるだけです。

そもそも、何が善で何が悪かを見極める力のない私の心が頼りないからこそ、阿弥陀さまは「そんなあなただからこそ、救わなきゃいけないんじゃないか」と涙を流してくださった仏さまなのです。

 生きていくということは大変なことです。時に耐え難い苦しみに耐えていかねばなりません。

そういう現実の中での自力の信心とは、今この身この場を否定して、未来に何かしらの結果を期待してあらゆるものを犠牲にして突き進んでいかねばならないものでしょう。それは結局苦しみの域を出ることはないのです。

他力の信心とは、今この身この場がどのようなものであったとしても阿弥陀さまはこの私を決して見捨てることはない。そのはたらきを南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)といただくところに、どうにもならないこの身この場を今、受け入れていくことのできる信心です。

あのような痛ましい事件をもう二度と生み出さないために、私たち一人ひとりが改めて自分自身の信仰のあり方を省みて、この「他力の信心」をいただかねばならないと思うのです。

合  掌

(2022年8月2日 発行)