『南無と帰命って何?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.26
前号で正信偈(しょうしんげ)の冒頭の二句『帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)』について少し触れました。実は正信偈の結論がこの最初の二句なのです。と言うよりも、親鸞聖人の90年の人生の結論がこの二句だと言ってもいいくらいです。
この帰命無量寿如来 南無不可思議光は、南無阿弥陀仏と同じ意味です。
南無阿弥陀仏とは何なのか、その意味を漢文で表されたのがこの二句なのです。
今号では「南無(なも)」と「帰命(きみょう)」という言葉にスポットを当てて書きたいと思います。
実は南無と帰命は同じ意味です。もともとはインドの「ナマス」という言葉が語源で、ナマスに無理やり漢字を当てはめたのが南無なので、漢字に意味はありません。南に無いという意味じゃないんです。
そしてそのナマスの意味に重点を置いて漢字で訳されたのが帰命です。南無も帰命もともに「おまかせする」と言う意味があります。
しかし親鸞聖人は、帰命とはそもそも「命(めい)に帰せよ」という阿弥陀さまからの喚(よ)びかけであるとおっしゃいました。命とは、いのちではなくて、命令の命です。
これを難しい言葉で「本願召喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)」とおっしゃいました。これは「どんなことがあろうとあなたを救いますという阿弥陀さまからの逆らうことのできない絶対の命令」ということです。
「逆らうことのできない絶対の命令」と言われると、どこか窮屈な感じがしますよね。賛成であろうと反対であろうと、自分の意思を差し挟む余地はなく、家庭や仕事やお金、自分の時間などを犠牲にしてでも言われるがままに従わなくてはならないという窮屈な印象を受けます。人間社会において、絶対の命令というとそのような窮屈な意味になりますが、浄土真宗においてはそれが全く逆で、自分を縛り、苦しめている一切のことからの解放を意味するのが「本願召喚の勅命」なのです。
この私が何者であろうとも何者でもなくとも、阿弥陀さまや浄土のことを信じようとも信じなくとも、救われたいと願おうとも願わずとも、徳があろうとなかろうと、阿弥陀さまは必ず私を救うというのです。
その阿弥陀さまからの「命に帰せよ」という喚びかけは、「どうかあなたの命を救わせてください」という阿弥陀さまの叫びなのです。
その呼びかけに対して「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とか「南無阿弥陀仏」と私が口にすることで「おまかせします」と応答しているのです。
ですから、南無や帰命には二つの方向があるということです。
一つは阿弥陀さまからの「命に帰せよ、まかせよ」という喚びかけ。
もう一つはその喚びかけに対して私が「命に帰します、おまかせします」と応答するということです。
ただ、親鸞聖人にとっての南無や帰命という言葉は確かに「おまかせします」という意味なのですが、そこには「参りました」ぐらいの意味が込められているように思います。
ちょっと考えてみてください。自分の命を簡単に「おまかせします」と言えるでしょうか。
皆さんが病気になったとして、病院の診察室に入った時、お医者さんに何と声をかけるでしょうか。私自身思い返してみると、私は必ず「よろしくお願いします」と言ってきました。治してほしいという思いが強ければ強いほど、「お願いします」の声に力が入っていたように思います。そんな場面でなかなか「おまかせします」とは言えないと思います。
そこには「大事な体ですから、治してもらわないと困りますよ」という思いがあったはずです。それは、病気が治ることを○、治らないことを×とする私の線引きが根底にあるのです。こうなってもらわないと困るという時に私たちは「お願いします」と言うのでしょう。
まさにそういう線引きこそが私自身を苦しめていくのだ、と仏教は説くのです。思い通りにならない現実を受け入れられず、思い通りにしようともがいていくところに苦しみが生じるのです。
ところが、「おまかせします」と言ったらどうでしょうか。○に転ぼうと×に転ぼうと、どっちでもいいという表明になるのです。
自分を縛り、苦しめていることからの解放。まさに親鸞聖人の「帰命〜」「南無〜」とは、そういう表明をされているのです。
いったい何のために生きるのか。死んでいくということはどういうことなのか。誰もが平等に背負うこの命の問題を前にして、ただ純粋に本当のことが知りたい、納得したい、安心したい。親鸞聖人はきっとそういうお心で命がけで求道していかれたお方だったのでしょう。
何かを掴むために、求めて、求めて、求めて、求めて…。
そんな自分がもうすでに阿弥陀さまに掴まれていた。私が願うよりはるか前から阿弥陀さまに願われていたのだと知らされた時、「参りました」と命の底から湧き出てくる感嘆の思いを「南無〜」や「帰命〜」と吐露されたのです。親鸞聖人の求道はもうそこで終わったのです。何かを掴もうとしていた手をそっと下ろされたのです。
それは人生最大の目的を果たした、と言ってもいいのかもしれません。
○や×の線引きなどはるかに超えて、「あなたを必ず救う」と私のありのままの身の上にはたらいてくださる大いなる喚び声との出遇い。それが私が口にする「南無」「帰命」なのです。
その出遇いによって、死と病を超えていかれた鈴木章子さんという念仏者がおられました。鈴木さんは42歳の時に乳癌が見つかり、その後肺などに転移し、5年間の闘病生活の末に47歳の若さで亡くなられました。鈴木さんは闘病中にたくさんの詩を書かれましたが、亡くなられる直前に書かれた、鈴木さんの最後の作品となった詩をここで紹介させていただきます。
念仏は
私に
ただ今の身を
納得して
いただいてゆく力を
与えて下さる
鈴木さんは病に冒され、死を目前にしながら、その我が身に納得し、喜んで47年の人生に幕を閉じていかれたのです。念仏者の凄みを感じます。
生こそが○で、死は×。健康こそが○で病気は×というものさしにしがみついて生きているのであれば、もしかすると病を背負った自分を、死にゆく自分を、否定してしまうかもしれない。こんな自分なんて…!と自分で自分を見捨てることがあるかもしれない。
でも、阿弥陀さまだけはどんな自分も肯定してくださるのです。私が私を見捨てても、阿弥陀さまだけは何があろうとこの私を見捨てないのです。
どうにもならない現実を前にしても、ただ変わらずに私を喚び続けてくださる声、「大丈夫、まかせなさい、安心しなさい」という喚び声が「南無」「帰命」なのでした。
「こうでなきゃ困る!」と何かにしがみついて生きるのも一つの生き方です。けれども、「おまかせします」と言えるものに出遇わせていただく。これを幸せと言わずして何と言うのでしょう。
さて、次号は続きの「無量寿如来」と「不可思議光」について書かせていただきます。
合 掌
(2022年2月7日 発行)