『あれこれねてくて』 読む法話 日常茶飯寺 vol.25
新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
一休さん、と言うと昭和生まれの人はだいたいご存知でしょうか?アニメにもなったとんちで有名なお坊さんです。実は一休さんと浄土真宗の蓮如上人(本願寺第八代門主、御文章の著者)は同時代に活躍された名僧で、蓮如上人が20歳も年下でしたがこの二人、とても仲がよかったそうです。
ある時、一休さんが蓮如上人に手紙を出されました。そこにはこう書いてありました。
「あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
……とかく人とは忙しきものなり」と。
すぐさま蓮如上人も返事を書きました。
「ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
……かくて人は死ぬものなり」 と。
この二つの文章が揃ってこそ仏教の真髄が表されているように思います。
私たちは日々なんやかんやとすることに追われています。あれこれあれこれと、何やらバタバタと過ごしているうちに一年なんてあっという間に過ぎ去っていきます。
ところが振り返ってみたらどうでしょう。「あれ?結局この一年何だったんだろう?」ということはないでしょうか。
そうやって私たちは、寝て食って寝て食って寝て食って寝て食って、「あれ?結局この一生って何だったんだろう?」と死んでいくのかもしれませんよと蓮如上人はおっしゃっているのです。
この二つの文章は別々のことを言っているようで実は同じことを言っているのです。私たちの有り様について「生」の側から見たのが一休さんの文章で、私たちの有り様について「死」の側から見たのが蓮如上人の文章なのです。
この二つの文章が揃ってこそ、見事に生死の苦海にさまよう私の有り様が表されているのです。
たった一度しかないこの人生、何のために生きるのか。
きっとこれは一人ひとりの人生において、何を差し置いても最も大切なことであるはずです。しかし私たちはそのことを問うことさえも、慌ただしい日々の中でうやむやにしているのではないでしょうか。
私たちは今2022年という新しい年を迎えました。けれども、誰もが来年のお正月を迎えられるかは分かりません。明日生きているという保証など誰にもないのです。
今日かもしれぬ、明日かもしれぬ、その命を生かされている中で、いつどこでこの人生が終わりを迎えても自分は大丈夫です、と言い切れるでしょうか。
それを言い切ったのが親鸞聖人なのです。
自分はいつどこでどうなっても大丈夫だと言えるものに出遇った!その命の底からの感動を叫ばれたのが
「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)」
『無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)し、不可思議光(ふかしぎこう)に南無(なも)したてまつる』
正信偈(しょうしんげ)の最初のこの二句なのです。
無量寿如来も不可思議光も阿弥陀さまのことです。
いつ、どこで、どうなるか分からないこの私の命を「必ず浄土に生まれさせる」と呼び続けてくださるはたらきが「南無阿弥陀仏」です。
な〜んだ、たかが念仏じゃないかと思いますか。そのたかが一声の念仏が親鸞という人の一生をひっくり返したのです。
少なくとも私たちは「自分はいつ、どこで、どうなっても大丈夫」と言い切れないのなら、それを言い切られた親鸞聖人のお喜びに耳を傾けるべきだと思うのです。今年もその一端をこの日常茶飯寺でお伝えしていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
合 掌
(2022年1月7日 発行)