『煩悩って何なん?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.24
今年ももういよいよ終わりが見えてきました。大晦日には西福寺でも除夜の鐘を撞きます。除夜の鐘は、煩悩の数と言われる108回を撞きますので、今号では、そもそも煩悩とは何なのかについて書きたいと思います。
煩悩は108つと言われますが、大きく分類分けすると三つになるそうです。これを三毒の煩悩と言いますが、その三つというのが貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)です。一つ目の貪欲というのはむさぼりの心です。もっと欲しい、もっと欲しいという心には際限がない、何もかも自分の思い通りにしたい、そのことを貪欲というのです。二つ目の瞋恚というのは怒りの心です。貪欲が満たされない時、自分の思い通りにならなかった時、私たちは腹を立て、周りにいる人や環境のせいにして八つ当たりをし、傷つけていきます。そして三つ目の愚痴というのは、不平不満を漏らすこととして知られていますが、本来は「真に大切なことが分からない愚かさ」を愚痴というのです。
貪欲・瞋恚・愚痴というと、私自身にも思い当たる思い出があります。
私が5歳の頃だったでしょうか。お正月の1月3日、私は母親に連れられてスーパーに買い物に行きました。するとスーパーの入り口に仮設テントが建ててあって、「現金3000円が当たる!お年玉キャンペーン」と書かれた看板が立ててありました。そこにはガラガラくじが置いてあり、5歳の私は「あれやりたい!あれやりたい!」と母親にせがみました。そのスーパーで買い物をしたレシートを見せると、買い物をした金額に応じてガラガラくじが出来るということだったので、母親は買い物を済ませてレシート私にくれました。私はそのレシートを持ってガラガラくじの所へ意気揚々と向かいました。受付のお姉さんが私の持つレシートを見て、「じゃあボク、一回だけまわしてね。赤い玉が当たり、白い玉がハズレやからね!」
ガラガラガラガラ…ポトッ
なんと、出たのは赤い玉だったのです。
「おめでとうございま〜す!」
3000円が当たってしまいました。
「やった〜!」と喜んでいると、さっきのお姉さんが私に耳打ちしました。
「ねぇボク、この3000円を元に、もう1回まわせるんだけどどうする?もう一回まわして、もしまた赤い玉が出たら3000円が5000円になるんだけど、白い玉が出ちゃったら3000円もなくなっちゃうの。どうかな?」
5歳の少年というのは直進あるのみ。二つ返事で「やるわ!」と言ってガラガラをまわしました。
ガラガラガラガラ…ポトッ
そこで出たのが、なんと!!
赤い玉だったのです。
「おめでとうございま〜す!」
3000円が5000円になってしまいました。
「やった〜!」と喜んでいたのも束の間、さっきのお姉さんがまた言います。
「ボク、今度が最後よ。もう一回まわしてもし赤い玉が出たら5000円が10000円になる。だけど白い玉だったら5000円がなくなっちゃうんだけど、どうする?」
やります。あぁやりますとも。5歳だからってナメてかかって後で痛い目見ても知らんよお姉さん!と言わんばかりにまわしました。
ガラガラガラガラ…ポトッ
ガラガラくじの受け皿に転がり落ちた玉を見て私は目を疑いました。
そこにあったのは、煌々と輝く純白の玉だったのです。
「残念でした〜!」
私が手にしていた5000円は没収され、替わりにポケットティッシュをもらいました。
予想だにしていなかった結果に腹を立てた私は母親に八つ当たりをしました。
「お母さんが悪いんや。5000円当たったところで止めてくれとったら、今頃5000円のおもちゃ買えとったのに。お母さんのせいで5000円を失ったんやで。だから、お母さん、5000円のおもちゃ買うてよ!」
これはもう、情けないほどに貪欲・瞋恚・愚痴のまんまですね。
最初はただあのガラガラくじをまわしてみたいという純粋な好奇心でしかなかったと思います。けれどもいざやってみると、赤い玉が出て3000円が手に入りました。「やった!」とその瞬間は喜んだけれども、その先に5000円があると知った瞬間に、もう喜びなど消え失せて5000円に手を伸ばしているのです。
再度ガラガラをまわして今度は5000円が手に入りました。「やった!」とその瞬間は喜んだけれども、やはりその先に10000円があると知った瞬間にはもう喜びなど消え失せて10000円に手を伸ばしているのです。これを貪欲というのです。もっと欲しい、もう一度あの興奮を味わいたいというむさぼりの心には際限がありません。けれどもそうやって手を伸ばしていった先にあるのは必ず、思い通りにならない現実です。その現実に直面した時、反省でもすれば立派ですが、腹を立て、それを他人のせいにしたり、自分の身の回りの環境のせいにするのです。これが瞋恚、怒りの心なのでしょう。
そもそも、母親を傷つけてまで5000円が大事だったのでしょうか。それは絶対に違いますよね。自分にとって何が本当に大事なのかが分からない愚かさ、それを愚痴というのです。本当に大事なことを見失い、何かをむさぼり、何かに怒り、振り返ってみたら何だったのか…そうやって一度きりの人生を空しく過ごしてしまっていいのでしょうかと仏教は私たち一人ひとりに問いかけるべく、煩悩ということを明らかに示してくださったのです。
阿弥陀如来という仏さまは、煩悩にまみれた私をそのまま救うと立ち上がってくださった仏さまです。綺麗になってから来いと言うんじゃないんです。汚れていたら汚れているまんまに抱きしめて涙を注いでくださる、今そのはたらきが紛れもなくこの私に届けられていた、それが南無阿弥陀仏の一声のお念仏なのです。
阿弥陀さまに出遇われた親鸞聖人はこんな言葉を残されています。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします 。」
(煩悩にまみれた私の目に映るこの世は、燃えさかる家のようにたちまちに移り変わってゆく世界であって、 すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つありません。その中にあって、ただ念仏だけが変わることのない真実でございました)
親鸞聖人はきっぱりと言い切られたのです。
今ここにある煩悩まみれの私に「私が私でよかった」という、命の底からの頷きを与えてくださるのは、「南無阿弥陀仏」ただこの一声のお念仏でございました、と。
煩悩の日暮らしを送る私たちは、その親鸞聖人の後ろ姿に学ばせていただくことが沢山あると思うのです。その一端を皆様にお伝え出来ればと、この日常茶飯寺を毎月発行してきましたが、振り返ってみれば、配布するたび「読んだよ〜!」と声をかけてくださる皆様の思いやりに励まされ、支えられ、私自身が仏法を聞かせていただいた一年であったと頭の下がる思いでいっぱいです。有り難うございました。また来年も、懲りずに発行していきますのでよろしくお願い申し上げます。
どうか皆様、お念仏と共に一年を締めくくり、お念仏と共に新年をお迎えください。
合 掌
(2021年12月10日 発行)