『大きな心の下で』 読む法話 日常茶飯寺 vol.23
早いもので十一月になりました。今月は西福寺で報恩講法要がありますので、今号は「恩」ということについて書きたいと思います。
恩という思想のルーツを探ってみると、古代インドで使われていたパーリ語の中に「カタンニュー」という言葉があるそうです。カタンニューとは「なされたことを知る者」という意味で、これが中国で「知恩」と訳され、日本に伝わってきたのだと思われます。
この「恩」という字の成り立ちを調べてみると面白いことが書いてありました。「恩」の上の「因」という字は、布団に大の字になって寝転がっている人の姿を表しているそうです。
大の字になって寝転ぶ、というとどういう状態でしょうか。やはり安心している状態だろうと思います。安心して大の字になって寝転ぶ、その下に大きな心の支えがあるのです。
どんな自分であっても、その自分をそのまま包み込んでくれる大きな心に出遇った時、もはや何者である必要もない。愚か者が愚か者のまんまで大の字になって安心できる、そのことを表したのが「恩」の一文字なのだそうです。
その「恩」ということを表したお話があります。
ある日の正午過ぎ、とある駅前にざわざわと人だかりができていました。その人だかりの視線の先にあるのは公衆電話の電話ボックス。三つ並んで設置されている電話ボックスの一つの中に、30代くらいのスーツを着たサラリーマン風の男性が入っていて、なんとこの男性、電話機にしがみついて大声をあげて泣いているのです。
大の大人が声をあげて泣いているので、通りがかった人がみんな驚いて足を止め、あっという間に人だかりになったのです。面白がって高みの見物に徹する人もいれば、心配をする人もいました。けれどもこの男性に声をかけようとする人は一人もいませんでした。
そんな中、一人のおばあさんが現れて、真っ直ぐ電話ボックスに向かって歩いて行くのです。
「あのばあさん、一体どうするつもりだろう」
人だかりの注目の的はサラリーマン風の男性から、このおばあさんに変わります。
コンコン。
おばあさんは電話ボックスのドアをノックしました。けれどもサラリーマン風の男性はただただ泣いているだけで、何の反応もありません。
するとおばあさん、ガチャっとドアを開けて、おもむろに自分のカバンに手を突っ込んでごそごそごそごそ…取り出したのは一枚のハンカチでした。
そのハンカチを男性の手に握らせて、両手で男性の手を包み込んで言いました。
「このハンカチ持って、思う存分泣きなさい」
そう言うとおばあさんは颯爽とその場を立ち去っていきました。
男性はこのおばあさんのハンカチをぎゅーっと握りしめて、よりいっそうお腹の底から声をあげてわんわん泣きました。
その場にたまたま居合わせた人が、夜になって再びその電話ボックスの前を通った時、もうそこにはあのサラリーマン風の男性の姿はなかったそうです。
この話を聞いて、皆さんはどんな感想を持たれますか。
もし私がこの場面に出くわした時、彼に対して何か行動を起こすとするなら、果たして私はどうしただろうか、色々と想像してみました。
「どうなさいましたか?」と尋ねて、もし彼が事の本末を話してくれるのなら、彼が落ち着きを取り戻すまで聞き役に徹するのがいいだろうか、とか、
「とりあえず場所変えましょか!」とまず彼をどこか人のいない所へ連れ出すのがいいだろうか…
色々なことを考えましたが、このおばあさんの言葉を聞いて気付いたことがありました。
私が彼のために何が出来るだろうか…と考えていたことはどれも、彼を「泣き止ませよう」とするものばかりだったのです。
考えてみれば、彼を泣き止ませようとするということは、泣かずにはいられない思いを否定しているのです。泣いちゃダメですよ、と言っているようなものです。泣かずにはいられない悲しみを背負った人に対して、「泣いちゃダメですよ」と言うことほど残酷なことはありません。「泣く」ことしか残されていない人から、「泣く」ということを取り上げるのですから。
自分の善意が、他人を絶望の底に突き落としかねないのだとゾッとしたことでありました。
そんな私とは違ってこのおばあさんはたった一言で、彼の全てを肯定したのです。泣かずにはいられない彼の悲しみをそのまま受け止めてくれたのです。
もちろんおばあさんは彼に何があったかなんて知りません。
けれども、おばあさんは知っているのです。人生というのはしばしば、思いもよらない「まさか」に直面し、涙に暮れていかねばならないということを。もしかしたらこのおばあさん自身も彼のように、人目もはばからず嗚咽を漏らした過去があったからこその、深遠なる共感だったのかもしれません。
その大きな心の温もりに触れた時、平静を装う必要や、格好をつける必要がどこにありますか。立派な自分である必要がどこにありますか。
泣かずにはいられない悲しみを背負った彼が、やっと心の底から泣かせてもらえるのです。
夜にはもうその電話ボックスの中に彼の姿はありませんでした。泣いて、泣いて、泣いて、泣き尽くした果てで彼は再び立ち上がり、電話ボックスの外へと一歩を踏み出したのだと願ってやみません。もしそうであるならば、彼は自分の足で立ち上がったのだけれど、その彼を悲しみのどん底から立ち上がらせたのは他でもない、どうしようもない悲しみに共感する心との出遇い、まさにあのおばあさんの一言だったのではないかと思うのです。
泣かずにはいられない悲しみを背負った者をそのまま包み込んでくれる大きな心に出遇った時、安心して心の底から泣かせてもらえる。「恩」という字はそういうことを表した字なのです。
仏教は諸行無常と説きます。それは「まさか」があるのが人生だぞ!ということです。しばしば涙に暮れていかねばならぬのが人生だと言うのです。
けれども阿弥陀さまは、私が背負っていかねばならない悲しみを、私より先に知り抜いてくださった仏さまです。それはひとえに、この私一人を救うためでありました。
その故に、何者でもないこの私に命の底から共感し、肯定してくださる阿弥陀さまなのです。
その阿弥陀さまの大きな大きなお心の上で、大の字になって愚者を生き抜かれたのが親鸞聖人というお方でした。
その大きな大きなお心は何も特別なものではなく、どこか遠いところにあるものでもない。そのお心は今、私たちの口に、耳に、「南無阿弥陀仏」のお念仏となってもうすでに届いてくださっているのです。
笑いたい時は笑いたいまま、泣きたい時は泣きたいまま、今この私のそのままを受け止めてくださるその大きな心の上で、命の底から笑い、命の底から泣いていける。そういう人生を「幸せ」と呼ぶのかもしれません。
合 掌
(2021年11月2日 発行)