『お母さん、また会えるよ』 読む法話 日常茶飯寺 vol.22
「また会える世界がある」そのことがどれだけ多くの人の人生を支えてきたことか。今号はそのことについて書きたいと思います。
日本の小説家、井伏鱒二氏が残した有名な言葉があります。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
これは唐の詩人于武陵の「勧酒」という漢文の詩に井伏氏が付けた訳です。
なんとも強烈な響きを持った言葉です。
仏教にも、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)生まれた者は必ず死ぬし、出会った者は必ず別れねばならない、という言葉があります。
出会った者はいつか必ず別れねばならない。それは出会った時から決まっていること。いつ、どんな形でその別れの時が訪れるかは誰にも分からない。今日かもしれず、明日かもしれず…。そんなこと誰一人として知らない人はいないはずなのですが、いざそれが厳しい現実となって我が身に降りかかってきた時に私たちは耐え難い苦しみを味わっていかねばなりません。
井伏氏もまた大切な方との別離に直面し、その苦しみの深さを「ダケガ」の三文字に込められたのかもしれません。
「いつまでも悲しんでたらあかんよ。前向いてしっかり生きていかな」
そう口にするのは簡単ですが、それが出来たらどんなに楽か。愛情が深ければ深いほど苦悩の底に沈んでゆかねばならないのが私たち人間です。
お釈迦さまは悟りを開いた時、「人生は苦の連続である」ということに気付かれ、この世に生を受けた以上避けて通ることの出来ない八つの苦(生・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく))を明らかにされました。
中でも愛別離苦、愛する者と引き裂かれていく苦しみは、人生で味わう苦しみの中でも「最も」と言っても過言ではないほどに深いものでしょう。
阿弥陀如来という仏さまは苦悩に沈む私たちを他人事として傍観することの出来ない大慈悲の仏さまです。私たちの苦しみ、悲しみの一切を知り抜いたからこそ、私たちが帰るべき浄土という世界をお作りくださったのです。
別離の悲しみが大きければ大きいほど、阿弥陀さまの慈悲の心も限りなく深いものであることが知らされ、その温かい胸の中に先立っていったあの人も、今ここに生きている私も等しく抱きとられてあることが知らされます。
阿弥陀経には倶会一処(くえいっしょ)、倶(とも)に一つの処で会う、と説かれています。死別は空しい永遠の別離ではなく、死もまた浄土に生まれる縁である。浄土とは、また会える世界、そしてもう二度と別れることのない世界です。
私は以前、インドのお釈迦さまゆかりの地を巡るツアーに参加しました。その時のことを日常茶飯寺第14号にも書いていますが、その時一緒に旅をした仲間はみんなお坊さんでした。その中に西本さん(仮名:60代女性)という方がおられました。西本さんもお坊さんですが、お寺の人ではありません。
西本さんは20代の息子さんを不慮の事故で亡くされました。それ以後、「なんで死んだの、お母さんを残してなんで死んでしまったの」と仏壇の前で毎日毎日涙に暮れる日々を過ごされました。「あの時私が止めていたら…」と自分を責め続けました。
けれど、いつまでもこのままじゃいけないと思い、ご主人の勧めもあって、京都で1年間、一人暮らしをしながら仏教の勉強をされました。そしてたまたま縁あって、私と同じインド旅行に参加されたのです。
インド旅行では色々なお釈迦さまゆかりの地を訪れ、私たちはその各所で法衣を着てお勤めをし、お勤めの後には誰かが短い法話をしました。
旅が始まって何日目だったか、私たちは霊鷲山という山の頂上を訪れました。この霊鷲山は、お釈迦さまが無量寿経(三部経の中心であるお経)を説かれた場所なのです。時刻は夕方、西の彼方に夕日が沈もうとしている中で私たちは無量寿経のお勤めをしました。そしてその日の法話の担当は西本さんだったのです。
西本さんは私たちの前に出て話されました。
「私は息子の死をきっかけにして仏教に興味を持ちました。最初は本でも買って読んだらいいわと思っていたけど、主人が京都で勉強してきたらどうかと勧めてくれたんです。今思えば、あの主人の言葉は冗談だったのかもしれないとも思うんだけど、当時の私は「え!いいの?」と家事も主人のことも何もかも全部放ったらかして一人京都に出てきました。そしたら今度はとうとう海を飛び越えて、インドにまで来てしまいました。主人もさぞかし呆れていると思います。」
明るく、また可愛らしいキャラクターの西本さんは面白おかしく話され、その場はどっと笑いに包まれました。
その笑いもひと段落した頃、西本さんは大きく深呼吸して言いました。
「でも、私をここまで連れてきてくれたのは…やっぱり息子だったのだと思います。お浄土があるということを、息子は私に教えてくれました。皆さんと一緒にお勤めした読経の声の中に「お母さん、また会えるよ」と、息子の声が聞こえたような気がします。
お念仏に遇えてよかった。お浄土があってよかった。
ずっと大事に抱きしめてきたこの悲しみは、ここに置いて帰ることにします。」
そう話された西本さんのお顔がとても輝いて見えたのは、夕日に照らされていたからという理由だけではなく、何か大きな変化が西本さんの中で起こっていたのではないかと思わずにはいられませんでした。
インドから始まった仏教は2500年以上もの年月をかけて今や世界中に広がっています。それは無形文化財として2500年伝えられてきたのではなくて、愛する人と引き裂かれた深い別離の悲しみの底で、仏教を支えとして立ち上がってきた人々の営みが連綿と2500年もの間紡がれてきたのです。西本さんがそうであったように、悲しみを縁として「お念仏に遇えてよかった。お浄土があってよかった。」と生死を乗り越えてきた仏教徒の歴史なのです。
「涙、涙、涙のゆえにみほとけは 浄(きよ)きみくにを建てたまひけり」
倫理学者の白井成允氏が作られた詩です。
こんなに悲しいことがあるのか、こんなに苦しいことがあるのか…、と涙に暮れていかねばならない私たちの悲しみを知ったからこそ、阿弥陀さまはまた会える世界、もう二度と別れることのない浄土をお作りくださったのです。
「涙、涙、涙」とはもちろん、私の流す涙でしょう。けれども、私の涙だけではないだろうと思うのです。それは同時に、私たちの深い悲しみを知った阿弥陀さまが流してくださる涙でもあり、そして先立っていった方が私を想って流してくださる涙でもあると思います。その涙が一つに融け合う世界が浄土であり、南無阿弥陀仏のお念仏はその浄土から私を喚ぶ声です。「なまんだぶつ、なまんだぶつ」とお念仏申す人生はそのまま、真っ直ぐに浄土へと向かう人生であったと知らされた時、苦悩の底で身動き一つ取れなくなっていた者が、浄土の限りない光に向かって大きな大きな一歩を踏み出すのです。
その一歩が西本さんにとって「この悲しみは、ここに置いて帰ることにします。」の一言だったのだと思うのです。
合 掌
(2021年10月9日 発行)