『阿弥陀さまっているの?浄土ってあるの?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.21

 阿弥陀さまって本当にいるんだろうか?浄土って本当にあるんだろうか?

「有る」のか、はたまた「無い」のか。私も含めて、科学に取り憑かれた現代人の多くが気になるところではないでしょうか。

その点において仏教は、「あるのでもなく、ないのでもない」という一見訳の分からない返答をしています。今号はそのことについて書きたいと思います。

「あるのでもなく、ないのでもない」

そう言われると、どっちやねん!と言いたくなってきますが、そこには深い理由があるのです。これは「あるのかないのか分かりません」と言っているのではなくて、「ある」か「ない」かにこだわることは無意味なことですよ、と言っているのです。

面白いと思いませんか。なんか宗教って、「あると思いなさい」と強要されるようなイメージがありますが、仏教は違うんです。

 万有引力の法則に置き換えて考えると分かりやすいと思います。

万有引力というのは、ニュートンがりんごの木からりんごが落ちるのを見て「なぜりんごは必ず下に落ちるんだろう」と疑問を抱いたことがきっかけで発見された法則です。今ではもはや常識として誰もが知っていることです。

さて、皆さんは万有引力の法則が本当に「ある」のか「ない」のかを真剣に考えたことはありますか。私はありません。(ないんかい)

なぜなら「ある」にこだわろうと、「ない」にこだわろうと、私を引っ張る力が私にはたらいていることに変わりはないからです。「ある」と信じた人にだけ万有引力がはたらいて、「ない」と思っている人は宙に浮いているなんてことははないですね。私たちが信じようと信じまいと、万有引力は誰にも平等にはたらいているのです。そのはたらきを受けたならば、「ある」とか「ない」とかに用事がなくなるのです。

 それと同じで、阿弥陀さまや浄土が「ある」とこだわろうと、「ない」とこだわろうと、「あなたを必ず救う」という阿弥陀さまのはたらきは誰にも平等に届いています。それが南無阿弥陀仏の一声のお念仏なのです。

ところが、そう簡単にこだわりを捨てられないのが私たちです。

自分がなぜ生まれてきたのか、生きるとは何なのか、死んだらどうなるのか、本当のところ私たちは何も分からないし、そんなこと誰も教えてくれない。人間として一番大事であるはずのことが何も解決されていないまま、学校や仕事、育児や家事など、日々の生活に明け暮れているのが私たちの有り様ではないでしょうか。

それでも死は刻一刻と確実に迫ってきている。そんなどうすることもできない不安をごまかすために、「阿弥陀さまはいるし、浄土はあるんだ!」とか「阿弥陀さまも浄土もない。死んだらおしまい!」というような「自分はこうだ」という芯を持つことで安心していたいというのが私たちの有り様かもしれません。でもそれは結局「ある」「ない」という考え方に縛られていて、何の解決にもなっていません。

親鸞聖人は「阿弥陀さまの光にひとたび触れたならば、有無を離れる(正信偈・和讃)」と表現されました。

「ある」とか「ない」ということに必死でしがみついて離そうとしなかった者が阿弥陀さまのはたらきに出遇ったならば、「ある」とか「ない」ということに用事がなくなってしまうとおっしゃったのです。

 昭和20年5月4日、第二次世界大戦の最中、相花信夫さんという18歳の特攻隊員が片道分の燃料を積んだ飛行機に乗って鹿児島の知覧を飛び立ち、沖縄の海上で戦死されました。その相花さんが特攻の出撃前夜、お母さんに宛てて『母を慕いて 』という遺書を書いておられます。

『母を慕いて 』
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった 
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

 相花さんはもしかしたら6歳から18歳までの12年もの間、継母であるお母さんに対して「母親であるか」と「母親でないか」という「ある」と「ない」の間でずっと揺れていたのかもしれません。それは同時に「自分は子なのか」それとも「他人なのか」という葛藤でもあったでしょう。

でも、どちらに偏っていようとも母親の深い深い愛情はいつの時もずっと変わることなく自分自身に注がれていた。出撃前夜、数枚の便箋を前にして改めてその大きすぎる母の愛情を思った時、「母親であるか」と「母親でないか」などということに何の意味があるでしょうか。もはやそんなことはもうどうでもよかった。ただどんな自分をもまるごと包み込んでくださるこの世で最も温かいぬくもりに対して「お母さん」と呼んだのです。

「ある」とか「ない」とかに用事がなくなる、有無を離れるとはそういうことではないかと思うのです。「ある」とか「ない」とか、そういう自分の計らいなどはるかに超えたものに出遇った時、自分の計らいがいかに無意味であったかに気付かされるのです。

「どんなことがあろうとあなたを必ず救う」と、生死を貫いて命の底から私を支えるはたらきが南無阿弥陀仏です。「ある」とか「ない」に縛られてがんじがらめになっている我が身をそのまままるごと包み込んでくださる途方もない温もりに対して「南無阿弥陀仏」と呼ぶ、もはやそこに「ある」とか「ない」というこだわりは何の意味も持たないのです。

 親鸞聖人は晩年、唯円という若い弟子に対してこんなことを話されています。「たとえ師匠の法然聖人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても私は何の後悔もありません。(歎異抄)」

浄土があるともないとも、地獄があるともないとも、もはや親鸞聖人にとってそんなことに用事はなく、ただ今「なまんだぶつ、なまんだぶつ」と、生死を超えて今この身このままを包み込んでくださるはたらきが念仏となって我が口から出てくださる、そのことを喜ばれたのです。

この時の親鸞聖人のお顔はきっと、なんの力みもない柔らかい柔らかいお顔であったことでしょう。

合  掌

(2021年9月7日 発行)