『見遇と聞遇』 読む法話 日常茶飯寺 vol.15
「生んでくれて、ありがとう」
そのたった一言を言うだけなのに、声を詰まらせるものは何だろう。
今号は身内話になってしまいますが、そんなテーマで書きたいと思います。
今年の2月19日、我が家の長男了尽が7歳の誕生日を迎えました。7年前の2月19日、恐る恐る抱っこする私の腕の中でふごふごふご…と消えてしまいそうな微かな吐息を聞いた時、命が生まれたんだ、とその重みを実感しました。
あれから7度目の誕生日を迎えた彼は、学校から帰ってくるなり、「プレゼントは?」と言ってくるほどに知恵がつき生意気な少年になりました。
「まぁまぁ、プレゼントより先に阿弥陀さまにお礼しよか」
長男は小学1年生ですっかり字が読めるのでお仏壇の前に座って一緒にお勤めをしました。
お勤めが終わるなり「プレゼントはどこにあるん」と聞いてくるので、私が
「まぁまぁ、今度はお母さんにお礼言っておいで。お母さんが7年前に産んでくれたから今日があるんやで」と言うと、
「なんて言うたらええん?」と聞くので
「そら、生んでくれてありがとう、やんか」と言いました。
「それ言うたら、プレゼントやな!」
さっさと言うこと言って早くプレゼントをもらいたい一心で長男は母親のところへ行きました。
ところがです。
いざ母親の顔を見ると、なかなか言葉が出てこないのです。
後ろで見ていた私からは彼の表情が見えません。
「恥ずかしいんかな。それとも、何て言えばいいか忘れたんかな」と思いながらも黙って見ていました。
「お母さん、、、生んでくれて、ありがとう」
彼は震える声を詰まらせながら言ったのでした。
さっきまでの勢いはどこ行ったんや!と思いながらも目頭が熱くなりました。
その後しばらくの間、母親に抱っこしてもらっていました。
不思議だなぁと思いました。きっとその言葉は本心から出た言葉ではなく、父親に言わされた言葉だったはずです。ところがその言葉を口にする時、自分の意に反して涙が溢れ出てきたのです。
その涙は喜びの涙だろうか、それとも寂しさか、恥ずかしさか…どんな涙だったのだろう。
ふとそんな疑問を抱いたことでした。
先日、西福寺で永代経法要が勤まりました。福岡県飯塚市からお越しいただいた龍谷大学准教授の井上見淳先生のご法話の中に「見遇(けんぐう)」と「聞遇(もんぐう)」という話がありました。
井上先生は「私たちは阿弥陀さまや先立っていった方々にいつ遇(あ)えるのか?死んだ後に遇えるんだろうか?死ぬまでは遇えないんだろうか…」そのことをテーマにしてあらゆる経典を調べてみたそうです。すると、どの経典にも「今遇う」と説かれていた、と話されました。
ところが「遇う」と言っても「見遇」と「聞遇」の2種類がある、と仏教は言います。
「見遇」とは見て遇うと書くように、面と向かって遇うということです。相手の姿形を見て声を聞いたり肌に触れたり、そういう遇い方のことを言います。私たちが思い描く「会う」ということのほとんどが見遇を指すのではないかと思います。
ところが見遇というのは、相手の表面を見ているだけで心の中までは見えていません。
笑って話していても、心の中では「早く終わらんかな」と思っているかもしれない。心と心が通じていないのでは本当の意味で遇っているとは言えない、厳しいけれど、そう説くのです。
それに対し「聞遇」というのは心と心の出遇いのことを言います。たとえ相手がその場にいなくとも、その心が聞こえてくる中に本当の意味で遇うということがある。心と心が通じ合うことこそ本当の尊い出遇いと言えるんだと説かれます。
井上先生のこのご法話を聞いた時に、長男の涙の理由が分かったような気がしました。
「生んでくれて、ありがとう」
この言葉を聞く中で、彼は母親に出遇ったのだと。
いつだって出遇っていたはずなのに気がついてなかった、この世で一番近くて、一番遠い母親という存在に。
毎朝「おはよう」と顔を合わす出遇いとは違った出遇いがそこにはあったのでしょう。
喜び、と言うとちょっと違う感じがする。でも寂しさとも恥ずかしさとも違う…
7歳の少年の小さな胸に収まりきらなかった、言葉にならない感動がこぼれ出たのがあの涙だったのではないかと思うのです。
生きていく中で、自分の理解など全く及ばないものとの出遇いがある。
親鸞聖人にとって、苦悩の人生を底からひっくり返して喜びの人生へと転じさせてしまうほどの出遇いが阿弥陀さまとの出遇いでした。
阿弥陀さまは「あなたをそのまま救う」と立ち上がってくださった仏様です。「そのまま救う」ということは、「一切の責任は全て私が背負う」という名告りでもあります。
何者にもなり得ない、愚かな自分であったとしても、その私を丸ごと包み込んでくださるのが阿弥陀さまです。
「生んでくれて、ありがとう」
その言葉を聞く中で、まだ会ったこともない、顔も知らず、性格も知らず、名前すらまだなかった自分を「生まれておいで 生まれておいで」と呼び続け、命をかけて生んでくれた母親に出遇っていくように、
「南無阿弥陀仏」
その一声を聞く中に、どのような私であっても抱いてくださる阿弥陀さまと、先立っていった方々に今遇わせて頂く、それを聞遇というのです。
たった一声だけれど、私の胸には収まりきらないほどの温もりがあります。
たった一声だけれど、今までも、今も、そしてこれからも、決して1人ではなかったと知らされます。
浄土真宗は聞法の宗教です。
でも、聞いて理解するのではないのでしょうね。私の理解などはるかに超えたことを聞かせていただく中に、阿弥陀さまとの、そして先立っていった方々との聞遇が恵まれるのです。
おかげさまで、実りある心豊かな永代経法要になりました。
ちなみに長男は、父親にはありがとうの「あ」の字すらなかったのですがね。
合 掌
(2021年3月15日 発行)