『観無量寿経ってどんなん?』 読む法話 日常茶飯寺 vol.8
今号は浄土三部経の2番目、観無量寿経について書きたいと思います。
観無量寿経はある出来事を通して説かれました。字数の関係で出来事に関して今回はほぼ省略していますが、いつか何かの機会でお伝えできればと思っています。
舞台は約2500年前のインドにあったマガダ国という国です。マガダ国の王さまはビンバシャラ王、そのお妃さまがイダイケ、その息子がアジャセといいました。
観無量寿経で焦点が当てられるのはお妃のイダイケです。イダイケは自分の思い通りにするためならどんなことでもする人物でした。我欲のために殺人を命じ、自らの手で我が子を殺そうとしたこともありました。
やがて年頃になったアジャセは、父ビンバシャラ王と母イダイケが自分を殺そうとしたことを知って激怒し、復讐をするのです。
アジャセはまず父のビンバシャラ王を牢獄に閉じ込め餓死させようとします。ところがいつまで経っても元気にしているので理由を家来に聞いたところ、イダイケがこっそり食料を運んでいるというのです。それを聞いて更に憤慨したアジャセはイダイケまでも牢獄に閉じ込めてしまいます。簡単に言うと、両親に殺されかけた息子が怒って父を監禁し、次いで母も監禁した、ということです。
絶望に打ちひしがれた母のイダイケはお釈迦さまに助けを求めます。
そのことを察したお釈迦さまは説法の最中でしたが説法を中断してイダイケの元に向かいました。
お釈迦さまと対面したイダイケは号泣して「なぜ私がこんな目に遭わねばならないのか」「私はなんて悪い子を生んでしまったのか」と、あらゆる感情をお釈迦さまにぶつけます。お釈迦さまは一言も発することなく黙ってそれを聞きます。しばらくすると感情を発散し切って落ち着きを取り戻したイダイケがお釈迦さまに言います。
「お釈迦さま、私はもうこんな憎しみに溢れた世の中は嫌です。どうか私に憎しみのない阿弥陀さまの浄土に生まれる方法を教えてください。」
そう言われて、やっとお釈迦さまは口を開きます。
お釈迦さまはイダイケに対して非常に厳しい修行方法を13種類も説きます。
例えばその1番目は、「姿勢を正して西に向かって座り、毎日夕陽を見つめなさい。決して心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられず、目を閉じても開いても、夜であってもその夕陽のすがたがはっきりと見えるようにしなさい。」というものです。とても気の遠くなる修行です。そんなのを13種類も説かれたのです。凡人にとっては人生すべてを捧げても、とてもじゃないけど時間が足りません。
それを聞いたイダイケは一言も発することが出来ません。
続いてお釈迦さまは心が散乱した状態でもできる修行方法を説きます。「これなら自分にもできるだろう…」とイダイケは内心ホッとしたことでしょう。
ここでは人間の素質を上の上・上の中・上の下、中の上・中の中・中の下、下の上・下の中・下の下の9種類に分けて、それぞれに応じた修行方法が説かれます。
まず上の上の人はこうしなさい、ああしなさい、と説かれます。でもそれとてあまりに難しいのです。次に、上の中の人はこうしなさい、ああしなさい…これも出来ません。次に上の下の人は…中の上の人は…中の中の人は…中の下の人は…どれも出来ない。
ここまできて、いよいよイダイケは「自分は救われないのではないか」という不安や焦りが深刻になってきます。
次に、下の上の人はこうしなさい、ああしなさい…これも出来ない。下の中の人は…、やっぱり出来ない。もう後がありません。イダイケのプライドは完全に崩れ去った、その最後の最後、お釈迦さまは言います。「下の下の人は…ただ念仏しなさい」と。ただ阿弥陀如来の名を称えなさい、と説いたのです。
この念仏こそ、無量寿経に説かれた念仏(第7号を参照)なのです。それは、イダイケがどんなに愚か者であろうと決して見捨てることのない阿弥陀さまのはたらきそのものなのです。
これを聞いたイダイケは心の底から喜び、念仏者となったのでした。
一見、この説法はイダイケの身の丈に合った修行を探しているように見えます。「これならどうですか、これなら出来ますか」と、無力なイダイケに合わせて修行を少しずつ易しくていっているかのようです。
でも、そうではありません。
お釈迦さまは最初からイダイケがどの修行も満足に出来ないことを知っていたのです。
お釈迦さまが本当に言いたかったのは最後の「ただ念仏しなさい」ということでした。それなら最初イダイケが教えを求めた時に「ただ念仏しなさい」と言えばよかったのに、なぜ難しい修行をあれやこれやとまわりくどく説かねばならなかったのか。
それはイダイケが聞く耳を持っていなかったからです。
イダイケは今まで何もかも思い通りに生きてきました。我欲のために人を殺し、我が子をも殺そうとしました。自分の願望を実現するためなら何でもするのです。そのくせお釈迦さまを前にした時には、いかに自分が可哀想な悲劇のヒロインであるかを訴えます。悪いことは全部周りのせいにして、自分のことを悪いとも思わず、むしろ自分は人から尊敬される優れた人間だと思い込んでいる傲慢な人、それがイダイケなのです。
そのイダイケに最初から「ただ念仏しなさい」と言ったらどうでしょうか。
修行の一つも教えてもらえずに誰にでも出来る念仏を勧められたら、傲慢なイダイケは「なんだそんなもの!馬鹿にするな!」と言ってはねのけるに違いありません。
驕り高ぶりの渦中にあるイダイケには何を言っても届かない。愚かなイダイケは、自分の愚かさも見えていなければ、差し出された救いの手さえも見えずに振り払ってしまうのです。
だからお釈迦さまは出来ないと分かっていながらあえて難しい修行をいくつも説いていくことによって、イダイケのプライドを一つひとつ剥がしていったのです。
落ちて落ちて、落ち切った先でイダイケが出遇ったものは、ありのままの自分であり、その自分をしっかりと抱いてくださる阿弥陀さまだったのです。
さて、このイダイケとは一体誰なのでしょうか。
親鸞聖人は「イダイケは私自身でありました」と、彼女の中に自分を見たお方でありました。
私たちは自分の愚かさが見えているでしょうか。
口では「愚か者の私」と言いながら他人から愚かと言われたら腹を立てるのが私です。自分の愚かさが見えていないのはイダイケも私も同じです。
そして聞く耳を持たないのも同じです。
「ただ念仏しなさい」と言われて「はいわかりました、南無阿弥陀仏」と素直に念仏するような自分ではありませんでした。なんか恥ずかしいし…とか、意味も分からんのに称えるなんて…とか何とか理屈をこねてなかなかお念仏しなかったのが私です。自分のものさしで仏法を計ろうとする点においてもイダイケと私に何の違いがあるでしょうか。
観無量寿経はその一筋縄ではいかない私のことを問題にしているのです。
お釈迦さまはイダイケを通してこの私に「ただ念仏しなさい」と勧めてくださっているのです。
合 掌
(2020年8月8日 発行)